大東亜戦争の「大東亜」とは?

弱い国が寄り集まって巨大な欧米資本に立ち向かう『東アジア共同体構想』。大東亜を現代風に訳せばこうなるでしょうか。中国の排日主義と列強の圧迫、そしてソ連の深謀に翻弄され続けた日本が死中に活をもとめて生み出した国家的プロジェクト。やがてアメリカとの無謀な戦争というかたちで消費され、暗黒の渦へと消えていきました。

「大東亜」は地域名であると同時に、高邁な理念であり、政策的手段であり、外交的戦略であり、国家的ビジョンでもありました。そしてその動きを利用した国際的謀略組織が確かに存在しました。言葉だけをとらえて一元的な見方をするのではなく、多面的多義的にみて複雑に絡み合ったひもをほどいていく必要があります。それによって日本が戦争をはじめた理由もみえてくるでしょう。

「大東亜戦争」の意味

政府は昭和16年12月10日、陸海軍大臣を交えた連絡会議にて、今般における米英との戦争を「大東亜戦争」と命名しました。

通常、戦争の呼称は戦闘地域や当事国の名に由来するものが多いのに対し、「大東亜戦争」には当時の日本が掲げた政治的スローガンが色濃く反映されています。

大東亜とはすなわち、「日本を含む東アジア地域」のこと。当初は日本・満州・中国・朝鮮・モンゴルなどの近隣地域という認識が、内外の情勢の変化とともに領域が拡大され、仏領インドシナ、米領フィリピン、英領マレー・ビルマ・ボルネオ・インド、欄領インドネシアなどの南方地域まで範囲に含むようになりました。それはつまり、それらの国を支配下におさめていた欧米諸国との関係が抜き差しならぬ状態になったという事情が、国防ラインを押し広げたのでした。

米英との戦争を決意した日本は、その目的を「アジアにはびこる欧米勢力を一掃し、その隷属的支配からアジアの諸民族を解放するための聖戦」に位置づけました。東アジアで日本を盟主とする自給自足の経済圏と国防圏を構築するという国家的方針を、この戦争によって成就しようとしたのです。

独自の経済圏を持つ構想が生まれたそもそもの背景には、欧米諸国から経済制裁を受けて資源の調達が困難になったことがあります。

昭和12年7月に北支事変が勃発。早期和和平のための終戦工作を図るもことごとく失敗し、蒋介石率いる国民党軍との全面戦争に突入します。中国利権を確保したい英米仏は全面的に国民党軍を援助。インドシナ半島や北部ビルマから軍事物資を補給して蒋介石軍が屈服しないようこれを助けました。この「援蒋ルート」に手を焼いた日本軍は、背後からの補給路を断ち切るために仏領インドシナへ進駐。欧米の虎の尾を踏んでしまった見返りとして受けたのが、石油の全面禁輸や在米資産凍結といった数々の経済制裁でした。

このまま締め上げられるままでは衰弱死を待つしかない。余力のあるうちに反撃の一打を打つことにした日本は、ジャワ、スマトラの豊富な油田地帯の確保を目的に、南方地域で大規模軍事行動を開始、米英と戦端を開きました。これが大東亜戦争に向かわせた一連の流れです。

 

「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」の構想

「大東亜」の概念が誕生したのは昭和13年ごろと思われます。そのころジャーナリズムの世界で「東亜共同体」なる言葉が軍人や言論人、学者、文化人などによってさかんに唱えられ、やがて理論的に体系化されると、政治的なイシューとして「大東亜新秩序」「大東亜共栄圏」といった言葉に収束されていきます。

当時目下の課題は、支那事変の解決でした。昭和13年1月16日、近衛内閣は「国民党政府を相手とせず」声明を出してしまい、あくまで蒋介石の重慶政権を叩き潰す構えをみせました。それによって戦局は泥沼と化し、撤兵したくてもできない状況へと追い込まれます。蒋介石政府を相手としないならば、中国大陸に新しい政権と秩序を建設し、日本のパートナーとして育成しなければならないとする思想が、「東亜共同体構想」に結びついていくのです。

政府が用いる公的な用語として「大東亜」がはじめて登場するのは、第二次近衛内閣が昭和15年7月26日に発出した『基本国策要綱』です。そのなかの「根本方針」で、《皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国の大精神に基づき世界平和の確立を招来することを以て根本とし、まず皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するにあり》と述べ、国是として国家の総力をあげて大東亜新秩序の建設の必要性を訴えています。

また、昭和15年11月13日の御前会議にて決定された『支那事変処理要綱』にも、「大東亜新秩序」という言葉が登場します。

《適時内外の態勢を積極的に改善して長期大持久戦の遂行に適応せしめかつ大東亜新秩序建設のため必要とする帝国国防力の弾撥性を恢復増強す》

このなかの「長期大持久戦」という言葉は、国民党政府の背後にちらつく欧米列強との戦いも視野に入れた世界戦争の意味にも取れなくもありません。やがて訪れる米英との戦争に耐えうるだけの国防体制の充実と強化が求められ、そのための方策として「大東亜圏新秩序」「大東亜共栄圏」の構想がありました。

もともと支那事変の処理を目的とする戦略的手段から、米英との戦争に備える国防計画へとその意図が拡張されていくのです。

「大東亜戦争」が意味するもの

「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」なる概念は、日本を米英との戦争へ大きく押し出しました。しかし、そもそもの出発点は、支那事変の解決にあったのです。すぐに終わると思われた戦争が一向に終わらない。中国国民党はなかなか根を上げず、よく敢闘し、日本側の損害も増える一方。これ以上なけなしの戦費と資源をダダ漏れして国力の低下を招いては、来るべきソ連・米国との戦争に対する備えができなくなってしまう。東アジア地域を丸ごと取り込む大東亜新秩序の建設は、国家存亡を賭けた国策ともいえました。

その一方で、大東亜新秩序という理念を利用して共産主義革命の実現を企んだ一派がいることにも目を向けなければなりません。「ゾルゲ事件」で逮捕された尾崎秀美をはじめとするグループです。「大東亜新秩序」の理論的支柱を担ったのが尾崎秀美であり、彼が残した数々の論文や手記をみれば、大東亜新秩序とはつまり共産主義革命のための共同体構想だったことが分かります。

尾崎たちの狙いは、支那事変を泥沼化させ、長期戦争に持ち込んで日本の国力を削ぎ落して革命を容易に実現することにありました。その目的の完遂のためには、南方に打ってでて米英を噛み合わせる大東亜新秩序の建設構想は大変都合がよかったのです。日本を戦争に引きずり込ませる特定勢力の暗躍があった事実も、「大東亜戦争」の側面に隠れています。

東アジアに日本を盟主とする国防圏を樹立するという野望は、米英との戦争によって木っ端みじんに打ち砕かれました。日本は戦争に敗れはしたものの、インドやビルマ、インドネシア、フィリピンなど被植民地諸国の民族精神に火をつけ、独立に大きく貢献しました。

戦後、それらの東南アジア諸国は結束して「ASEAN」を立ち上げます。これはまさに大東亜共栄圏の理念を引き継ぐものでした。

日本は中国と国交を回復する前からASEANと連携し、東南アジア地域との友好を育んできました。今につづく日本とASEANの関係は、ともに大東亜戦争を戦ったという共有体験が大きく関係しています。

 

参考文献

「大東亜戦争史」「大東亜戦争とスターリンの謀略」「世界が語る大東亜戦争と東京裁判」

 

 

 

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