【コラム】大本営とは?

大東亜戦争を知らない人でも、一度は耳にしたことがあろう「大本営」という言葉。愚劣な作戦を連発した敗戦の元凶、あるいはいい加減かつ野放図な統計発表で国民をミスリードした悪しきお役所機関ー。戦前の日本を象徴する言葉としてやり玉にあがるこの「大本営」には、どこか陰鬱で疑わしいものの代名詞のような響きがあります。

大東亜戦争下の大本営は、昭和16年9月初旬に『帝国国策要綱』をまとめ1か月をめどに戦争準備の完遂を約束、日米開戦へ向け大きく舵を切りました。戦争中は重要な大作戦や戦争指導方針を取りまとめる一方、戦果の過大評価や情報隠蔽を繰り返すなど統帥機関としての機能はほぼ喪失、混迷深き戦局の大きな一因となります。昭和20年8月15日玉音放送・戦闘終結、それににともない全陸海軍部隊に対し停戦命令を発令、その歴史的使命を終えました。

大本営が最初に設置されたのは、日清戦争前夜

大本営とは、明治中期から大東亜戦争終結まで存在した、陸海軍の作戦に関する意思決定のための最高機関をいいます。最初に設置されたのは、明治26年(1894年)6月5日、日清戦争が起こる直前のこと。前年に「戦時大本営条例」が制定され、天皇下に置く戦時の統帥機関を大本営と呼ぶようになります。同年9月13日に宮中から広島へ移された際は、明治天皇自ら現地に赴き、黄海海戦の経過を見守ったことで知られます。

当初、軍の作戦計画を担当するのは参謀総長の任であり、その関係から海軍の軍令部長は陸軍参謀総長の下位という位置づけでした。この点に対して海軍側から異議が唱えられ、明治36年(1903年)12月28日の制度改正にともない、「参謀総長及海軍軍令部長ハ各其ノ幕僚ノ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス」(戦時大本営条例第三条)の一項が入り、大本営内の参謀本部と軍令部は同列となりました。

昭和12年に支那事変が勃発。戦時下の統帥機関とされてきた大本営は、これを機に事変でも設置できるよう改められます。大東亜戦争がはじまってからもそのまま陸海軍の最高統帥機関として設置され、戦闘終結した昭和20年8月まで維持されます。

大本営の編成は参謀本部、軍令部、侍従武官、報道部、兵站部などの組織が個別権限を持って存在し、さらにその下部組織が幾重も連なる複雑な機構でした。軍政の意見を反映させる目的で、陸海大臣も大本営の一員として組み込まれました。

戦争末期になると、新たな機構が次々に付け足されていきます。海軍機構だけでも、以下の組織がありました。

  • 大本営海軍通信部
  • 大本営海軍報道部
  • 大本営海軍戦備考査部
  • 大本営附属海軍諜報機関
  • 大本営海軍戦力補給部
  • 大本営海軍戦備部
  • 大本営海軍戦力錬成部

大本営の組織強化と権限の掌握によって戦局の打開を試みるものの、焼け太りしただけで結果的にセクショナリズムの先鋭化を招くだけとなります。

大本営は純然たる陸海軍の作戦一元化を図るための機関であり、戦争・事変に関する国策および方針は、「大本営政府連絡会議」にて決定されました。この場には陸海大臣と各幕僚長のほか、政府首脳陣や企画院総裁、内閣書記官長や陸海軍省の軍務局長も出席。議長は内閣総理大臣が務めました。戦争末期になると、「最高戦争指導会議」に名を変え、終戦工作やポツダム宣言受諾の是非をめぐる討議などが行われました。

長野への移転計画「松代大本営」

本土決戦を想定し、政府および大本営を東京から長野県松代市へ移転する計画が浮上。昭和19年春ごろから、極秘裏に地下壕の造営工事が進められました。

移転先に選ばれた松代市は海岸線から遠く地盤も堅固で、中枢施設を固める要衝として申し分ない環境条件でした。工事計画では坑道回りをベトンで固め、さらなる防御機能の強化を狙い突貫工事を敢行。昭和20年7月ごろには大方の工事が完了したといいます。

しかし、昭和20年6月6日の最高戦争指導会議にて「帝都固守」で意見は一致。移転計画は一旦白紙となります。それでも陸海軍はいざというときに備え、松代に偵察要員を派遣するなど水面下での移転準備を進めていきました。

長野県松代市の舞鶴山、皆神山、象山にわたって約10km掘りぬかれた碁盤状の坑道は、終戦間際の国内状況を伝える貴重な戦史遺産として一部が公開されています。

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