マレー作戦5|クワンタンとクワラルンプールの攻略

■日本軍

<クワンタン方面の戦い>

侘美支隊(第十八師団)

那須連隊

<クワラルンプール方面の戦い>

河村部隊(歩兵第四十二連隊第一大隊 歩兵第十一連隊第一大隊)

渡辺支隊

花輪大隊(歩兵第四十二連隊第二大隊)

丸谷大隊(同第一大隊)

市川大隊(歩兵第十一連隊第三大隊)

ペナン支隊(歩兵第四十一連隊、同連隊砲、速射砲各半部、無線一分隊)

安藤部隊(歩兵第四十二連隊基幹)

近衛師団

 

■イギリス軍

<クワンタン方面の戦い>

第二十二印度旅団(イギリス第九師団)

<クワラルンプール方面の戦い>

第六旅団および第十五旅団の残存兵力

第二十八旅団

第十二旅団

第十一師団

 

 

 

クワンタンの攻略

ほぼ無血上陸だったシンゴラ、パタニーの作戦と異なり、第十八師団侘美支隊は多大な犠牲を払ってマレー半島東岸の要衝・コタバルを押さえた。早速シンガポールを目指して南下したいところだが、この先の進撃路には強力な火力装備を持つ英軍守備隊が待ち構える。戦力の再整備と兵器の充実を図るためにも、数日間を準備期間にあて、12月12日、進撃を再開した。

英軍の反抗を封じ込めるため、侘美支隊長は那須大佐率いる先遣隊をケランタン河沿いのクワラクライへ向かって進軍させた。那須連隊は大きな損害も出さずに13日マチャン、20日にクワラクライの占領を果たす。クワラクライは山と河に囲まれた小さな市街地で、敵の主要基地もあり、数棟の倉庫からは多量の食糧とガソリン1万缶が残されていた。さらにおびただしい台数の自動車と自動貨車が乗り捨てられており、これらの鹵獲品はその後の作戦行動における大きな推進力となった。

先遣・那須連隊の活躍

ケランタン河沿いに軍を進めた侘美支隊だが、急遽進撃ルートの変更を余儀なくされる。というのも、南方軍がクワンタン上陸を計画しており、上陸援護の要請が侘美支隊に出されたためだ。侘美支隊および那須連隊は、海岸通りからクワンタンを目指すルートに切り替えた。

クワンタンへの進撃で大活躍したのは、鹵獲した敵兵の自動車である。東岸の砂浜地帯は砂質が頑丈で、自動車の通行に適していた。途中、横断する河川の渡河では、舟艇が活用された。自動車を運搬しての渡河に多大な労苦を要しつつ、マラン、メルチアン、ヅングンの各河川を渡り切り、23日パカに到着した。それ以降は、周辺からかき集めた材料で架橋する作戦で、これには工兵部隊が大いに活躍した。

すでに日本軍の上陸はマレー全土の英軍の知るところであり、南下するほど敵の抵抗も激しくなる。前進一辺倒ではこちらの作戦も読まれやすい。そこで那須連隊は、一部の兵を本道に沿って進ませ、主力を迂回させて敵の横っ腹を突く陽攻作戦で臨んだ。主力先頭を務める第三大隊は、斧やなたでもってジャングルを切り開きながら前進し、進路に迷わないよう夜行磁石を携えて行軍した。途中には広い沼地もある。誰かひとりでも深いぬかるみに足を取られたら、部隊行動は遅滞してしまう。足場になるのは切り株だけで、歩の取り方には慎重を要した。間違ってワニを踏む者もいたが、大事には至らなかった。部隊は休むことなく前進を続け、29日未明、ジャボー北側に到着する。

ジャボーからケチル峠を超えると、目的地であるクワンタンはもう目の前である。クワンタン市街から海岸道路付近にかけて、集中的に守備配置につく英軍の姿が認められた。クワンタン市街を占領するとともに、英航空軍の牙城であるクワンタン飛行場も速やかに確保しなければならない。同飛行場には多数の英兵による守備が予想されたが、クワンタン進出時点で場所の特定はできなかった。

31日夜明け、クワンタン市街に突入したのは、那須連隊主力の第三大隊である。英軍は抵抗する様子もなく、クワンタン河をわたって南方へ遁走した。敵ははじめから、クワンタン河口付近のトーチカ陣地に立てこもって日本軍をおびき寄せる算段であった。追及した第三大隊は予想以上の敵の抵抗に苦しみ、多数の犠牲者を出した。この戦いで、中隊長河村中尉、第十二中隊長池沼中尉が戦死した。

その後、インドシナから応援にかけつけた的場部隊も加わり、クワンタン河口付近で抵抗を見せる英軍を追い詰めるが、完全制圧にはいたらず正月を迎えてしまう。

2日夜、敵情視察によってクワンタン飛行場の正確な場所が判明する。那須連隊は、3日茜色に染まる夕暮れどきを狙って総攻撃を開始。抜刀隊が切り込み、手りゅう弾が飛び交う激戦の末、23時頃飛行場の占領に成功した。

クワンタン飛行場は英軍によって部分的に破壊されていたが、工兵隊の昼夜を問わない作業によって約1週間で使用可能な状態まで整備された。

クワラルンプール攻略

シンゴラ、ペタニーから上陸した第五師団は、国境陣地を突破し、第一期作戦の最大の関門であるペラク河の渡河を完了した。先頭部隊の河村連隊は、敵の強固な砲兵陣地が集中するカンパルで激しい英軍守備隊の抵抗に遭う。英軍は、オーストラリア第十二師団主力に加え、第六旅団と第十五旅団の残存兵力を統合してカンパル付近に配置。日本軍の南下を食い止める狙いであった。

河村連隊も、連日の戦闘と危険なミッション続きで身体的にも精神的にも疲労の色合いが濃く、攻撃に精彩を欠いた。連隊による敵陣地攻略が遅々として進まないのを見かねて、安藤支隊、近衛師団から援軍が駆けつける。それでも、戦況を好転させるまでには至らず、カンパル攻略は年明けに持ち越すこととなった。

第五師団は、陸からの進軍に加え、別動隊として渡辺支隊をペラク河右岸ムルト港から出港させ、海上移動でクワラルンプールの後背・クワラセランゴールへの進入を狙う。しかし、河村連隊の掩護射撃が必要と判断した軍が作戦変更を申し入れたことにより、同支隊は手前の陸地に着岸してテロクアンソンへ進出することになった。カンパル付近に兵力を集中し、頑強な防御陣地の粉砕を試みる。さらに第五飛行集団が陸上基地や英軍舟艇に爆撃を加え、敗走する英軍を追い詰める。

1月2日夜、カンパル付近の英軍はとうとう退却を開始した。敵の退路を遮断すべく、第五飛行集団はタンジョンマリム付近の橋梁を爆撃した。

戦・歩・工の統合作戦

カンパルでの激闘後、日本軍は河村連隊を後ろに回して安藤大佐率いる歩兵第四十二連隊に先導を命じた。目指すはマレー南部の要衝・クアラルンプールである。その手前には、トロラック、スリムなどの部落があり、北方には広大なジャングルが漆黒の闇をたたえて立ちふさがる。マレーの南下ルートは、ゴム林と湿地に挟まれたこの長隘路ただひとつである。そしてそこには、大砲、戦車砲、機関銃砲を配備した英軍第十一師団が待ち構えていた。

トロラック西北方五キロ地点からスリムにかけ、英軍の抵抗線が横たわる。連隊の進軍を阻んだのは、ジャングルの中に仕掛けられた鉄条網およびコンクリート柱などの対戦車障害物であった。砲弾を浴びせても破壊できず、突破は困難を極めた。

敵の堅固な陣地に手を焼いた安藤支隊、1月7日の総突撃に向け準備を整えていたところへ、戦車中隊の島田豊作少佐から、このような進言を受けた。

「戦車部隊を生かすなら、夜襲あるのみです。明るい時間帯に仕掛けても、みすみす敵の攻撃網にかかるだけでしょう。日が落ちた頃に奇襲をかければ、敵の射程も狂います。重厚な陣地を一挙に駆逐するには、戦車部隊の強力な火砲で敵陣を粉砕し、突破を試みるしかありません。歩兵、工兵ともに私にあずけてください」

戦車部隊による夜襲は前例がない。いかに夜襲を得意とする日本陸軍も、視界の確保を約束されない状況ではたして成功するか危ぶまれたが、安藤連隊長は島田少佐の奇策に賭けてみることにした。

島田少佐率いる戦車・歩兵・工兵の統合部隊は、6日深夜、密に敵陣地のあるゴム林に潜入する。工兵隊が対戦車障害物を処理して前方進路を開拓し、日本陸軍が誇る九十七中戦車が撤去物を蹂躙しながら突き進む。戦車の傍らには、歩兵が張り付いて周囲を警戒した。敵は静観しているのか、戦車が地響きを立てても弾は飛んでこない。第一線陣地を突破し、第二線陣地の鉄条網をなぎ倒したところで、茂みの影から土豪から、一斉に曳光弾が放たれ戦車部隊を光で包み込んだ。機銃や砲撃の射光で敵の姿が浮き彫りとなり、すかさず砲弾を浴びせてめった打ちにする。ゴムの木の根元がめくりあがり、土豪に隠れていた敵兵を吹き飛ばした。闇夜で照準が定まらないのか、これまで正確を極めた敵の射撃は戦車の頭上をかすめていく。反対に、容赦なく打ち放たれる島田部隊の銃砲弾の餌食となるばかりであった。

歩戦工は連携を取りながら、敵の砲火を突破、七線六キロにおよぶ陣地の全縦深を三時間の攻撃によってことごとく突破した。早朝、部隊はトロラック突入に成功する。島田戦車中隊は、さらに前進してスリム橋橋梁を確保した。マラッカ海峡から水上移動してきた渡辺支隊も、クワラクブバール、ラサ、バタンカリを逐次攻略。スレンダー付近の英軍を夜襲で撃破し、クアラルンプールに迫った。

1月11日までに、別々のルートを辿ってきた近衛師団や第五師団、各支隊が続々クワラルンプール入りを果たす。英軍は大きな抵抗を見せずに退却した。第五師団を主力とする日本軍は、スリムの戦闘で英軍約一個師団を殲滅、さらにマラッカ海峡からの海上機動で英軍の側背を突く作戦で大きな脅威を与えた。この心理的威圧効果が、英軍を早々と退却せしめた要因といえる。

付記

戦車部隊の猛進や歩兵の敢闘精神、工兵部隊の献身的なサポートが光った、カルパン・スリムの戦い。その一方で、“戦わずして勝つ”場面も幾たびか見られた。インドの兵士たちが日本軍を前にして消極的な戦いを見せ、投降する者も多かった。英軍の軍服を脱ぎ捨て、日本側の味方になるよう働きかけたのが、藤原岩市大佐が統率する藤原機関(F機関)の情報将校たちである。

藤原機関は、マレーやスマトラなどで作戦を展開する日本軍を後方支援するための情報機関で、情報収集や現地住民の慰撫工作などが任務であった。それと同時に、現地のマレー人やインド人、ジャワ、スマトラの島民たちの独立精神に火をつけ、反英感情をたきつけるとともに日本軍への協力を促すためのさまざまな活動も行った。

藤原機関は、マレー半島を中心に活動していたIIL(インドの独立と解放を目指す秘密結社)と結びつき、マレー英軍にスパイを送り込んでインド兵の対英離間工作を積極的に図っていく。その工作が実を結び、インド投降兵たちを中心とする義勇軍が結成される。それがモハンシンン大尉をトップとするINA(インド国民軍)である。ILLもINAも、ともにインドの自由と独立のために戦う集団として日本軍と手を結び、諜報活動にも協力した。カルパンやスリムの戦闘では、ILLやINAのインド人たちが弾雨を潜り抜けて英軍陣地に忍び込み、インド兵と接触。日本側がどれだけインド兵を厚遇しているか諄々と説いて投降するよう促した。そのようにして骨抜きにされたマレー英軍は、士気も戦闘も振るわず、降参・退却を繰り返し、最終的に日本軍の前に屈したのである。

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