マレー作戦4|ジットラ陣地の攻略とペラク河渡河作戦

■日本軍

第五師団(師団長・松井太久郎中将 佐伯捜索第五連隊 河村部隊 安藤支隊など)

近衛師団(師団長・西村琢磨中将 正木支隊など)

第三飛行集団(指揮官・遠藤三郎少将)

■イギリス軍

英第十一師団(インド第六旅団 インド第十五旅団)

■作戦背景

英軍根拠地・シンガポールを目指し、半島路1100kmを縦断するマレー作戦。進撃路である西海岸は半島随一の大河・ペラク河を抱え、巨大な濁流が進撃ルートを貫いている。北上する英軍によってペラク河本流にかかる鉄橋、自動車橋、鉄道橋を破壊されれば、作戦は頓挫してしまう。英軍による橋梁爆破の企図を封じ込めるため、軍は先遣部隊の佐伯第五捜索連隊を西海岸から、安藤支隊をペラク河上流へと続くジャングル道から進攻させる二方向作戦を開始する。

 

ジットラ陣地を突破せよ

敵軍の掌握を務めるべく先遣を任された佐伯捜索連隊は、シンゴラ上陸後、神速の動きで英印軍の守備隊をはねのけ、国境付近まで前進する。敵の偵察・捜索を主任務とする部隊だったのが、その鋭い攻撃力を軍に買われ、戦車一個中隊と歩兵部隊、装甲車部隊付きの佐伯挺身隊として再編成されたのである。斬り込み部隊が拝命した任務は、英軍が誇る強力なジットララインの粉砕と、西海岸要衝の地・アロルスターの占領である。

佐伯挺身隊による錐もみ攻撃

英軍は、開戦の半年前から日本軍の侵攻に備え、国境下にあるジットラ周辺にトーチカや自動火器などを整備し、堅固な防御陣地を構築してきた。ジットラの前方、チャルン・アースン・チチバジャングと連なる密林地帯にも、防御陣地を築き、地雷や爆破装置を至ることろに仕掛けるトラップゾーンを形成。通行路ととして可能なのは狭隘な林道のみ、周りはゴム林と湿地帯に囲まれた底知れぬジャングルで、南方特有のスコールに襲われれば道路はたちまち泥の海と化した。

各陣地には、第六インド旅団・第十五インド旅団によって構成される英軍第11師団の守備隊が配備され、その規模はのべ五千人。装甲車九十、対戦車砲五十五門という重装備で、高度に機械化された部隊だ。機関砲や山砲、重火器で埋まる毒牙の森へ、日本軍は足を踏み入れたのである。

敵がどこに隠れているかもはっきりしない闇の道を、戦車部隊を先頭とする佐伯挺身隊は進んでいった。不気味な気配が漂う中、最初の敵陣地があるチャルン付近に差し掛かると、前方に橋が見ててきた。そこへ襲い掛かってきたのは、すさまじいばかりの機関銃攻撃だ。敵は茂みの奥に隠れているらしい。佐伯挺身隊の戦車部隊ならびに装甲車部隊は、ただちに砲口を森に向け応戦した。

予想通り、橋梁には爆破装置が仕掛けられている。一歩でも足を踏み入れれば爆弾の餌食となり、橋もろとも部隊は河川に叩き落されるであろう。後方の装甲車部隊から歩兵が飛び降り、工兵隊とともに橋脚に食らいついて装置の除去に取り掛かる。その間も、敵は容赦なく銃弾や砲撃を浴びせてきた。暗闇の中の小道は激しい銃火音と砲煙に包まれた。

歩兵の一部が装甲車を乗り捨て、白刃と拳銃を手に茂み奥の陣地へ斬りかかっていく。湿地帯を突破して迂回し、英軍を側背から攻撃する部隊もいた。守備についていたインド兵は戦意を喪失し、武器を捨てて走り去る。

本作戦を控え、第五連隊長・佐伯静夫中佐は、部下たちを前にこう訓示した。

「一車が止まれば一車を捨て、二車が止まれば二車を捨て、敵軍も友軍もすべて踏み越え突進せよ」

連隊長の激烈な言葉を体現するかのような奮闘ぶりであった。

戦国武将然とした名将・佐伯静夫

佐伯中佐は機甲兵隊を束ねる連隊長だが、もともとは騎兵出身で、馬上の武士らしく、俊敏な動きと鋭い勘、勇敢な攻撃精神を持つ気骨の将校であった。乗馬中隊や機関銃中隊を率いて大陸戦線で活躍してきた歴戦の猛者でもある。地形峻険、狭隘な山岳地帯でもダイナミックな作戦行動を展開し、一挙に三千名の敵兵がこもる根城を攻略するなど、これまで立てた武功は少なくない。勝負の肝を抑える勘所も絶妙なものがある。第五師団先遣隊による錐もみ攻撃は、戦国武将然の骨ある指揮官によって支えられていた。

その佐伯中佐の参謀役を務めたのが、辻正信作戦参謀である。辻参謀は、自ら先頭車両に乗り込み、砲弾が乱れ飛ぶ戦場の最前線で陣頭指揮をとるという虚に出た。本来、敵軍の偵察業務を任務とする佐伯捜索連隊に、戦車ごと突っ込む威力偵察を行わなせたのも辻参謀による深謀である。その案が採用されたのも、実戦の機微を知り尽くした佐伯中佐の慧眼によるものだった。

錐もみ攻撃の真骨頂が発揮されたのは、激しいスコールの中、敢行されたアースン陣地奇襲作戦である。辻参謀はこの戦いを“マレー作戦における桶狭間”と位置付け、敵陣地の懐へ一斉突撃を推進した。林道上の英軍戦車、自動貨車、砲車などを戦車の突進力で押しつぶしていく力攻めに、雨宿りしていた英印軍は完全に虚を突かれ、戦車を置いて逃げ惑うしかなかった。電光石火の縦深突破が行われたのは、わずか20分間。まさに、雷鳴がとどろくかのごとき一瞬の早業であった。

逆転劇でジットラを攻略

ジットラ陣地には、トーチカや対戦車地雷、通信線、複数の屋根付鉄条網などが設置され、規模はこれまでの陣地と比較にならないほどの強大さだ。12日未明、暗闇の中を先頭部隊が慎重に進軍する。橋梁間際にさしかかると、突然、茂みの背後から膨大な量の照明弾が弧を描いて撃ち込まれてきた。あたりが真昼のように明るくなったかと思いきや、壮絶な砲射の乱れ撃ちが展開された。

先頭を走る戦車隊、後続の装甲車部隊はすかさず戦車砲を打ち込み応戦。曳光弾を使った敵の攻撃は正確を極め、銃弾の犠牲で倒れる者も何人かいた。重砲の爆音がとどろく中、工兵隊は破壊された橋の修復作業に取り掛かる。銃弾や砲弾が紙一重で乱れ飛ぶ、緊迫した状況下での作業であった。

ジットラ陣地へ突撃を開始してから丸一日、これまで一時の休みもなく弾雨の中を潜り抜けてきただけに、疲労も消耗も大きい。攻撃に鈍りが生じてきたとしてもおかしくはない。逆に敵の攻撃はますます鋭さと分厚さを増すばかりであった。森の茂みや林道脇から、砲火が雨あられのごとく降りかかってくる。そのすさまじさに、佐伯中佐も敵弾を避けるためゴム林に身を隠すほどであった。

佐伯中佐は、中隊を第一線部隊に加えて敵の集中砲火に対抗する。装甲車中隊は、車載機関銃を外してそのまま歩兵として敵陣に突っ込んでいった。山砲一門と戦車砲の援護射撃の下、錐もみの戦端を分厚くしてジットラ陣地の一角を食い破ることに成功した。

午後になって、後方から後続の河村部隊が到着。さらに歩兵部隊も続々戦闘参加し、形成は逆転した。息を吹き返した日本軍の攻撃に、英軍は白旗を見せるように徐々に後退をはじめていく。当日夕方、夜襲の準備をしていたところへ、英軍撤退の報が入ってきた。

「最低でも3カ月は持ちこたえる」と英軍が豪語していたジットラ陣地は、佐伯挺身隊による電撃作戦によってわずか一昼夜にして壊滅した。

ジットララインを攻略した第五師団は、その後も英軍を駆逐し、十三日アロルスター、十六日スンゲイパタニーを占領、さらに十九日には英軍の重要根拠地・ペナン島攻略に成功する。北部マレーの全飛行場占領も、シンガポール攻略に向け重要な布石となった。

ペラク河渡河作戦

パタニーに上陸した第五師団安藤支隊は、ペラク河上流地点へと続く悪路を、ひたすら真っすぐ突き進んでいった。あえて進軍ルートに適さない難所が選ばれたのは、敵軍の警戒と防御の空白部を突いて1日もはやい橋梁確保を成し遂げたいがためである。折からのスコールによって山道は泥濘と化し、橋を突破するにも補強工事なしには渡れない。上流に通じる道は断崖を多く含み、足を取られるだけで命を落とす難所が続く。少しでも気を抜けば、ヒョウやオオトカゲ、大蛇といった伏兵に寝首をかかれてしまう。そんな一切の油断を許さない命がけのルートであった。

上流に位置するベラクにたどり着くと、そこからは自動車道路が整備され、自転車での通行が可能であった。支隊はそれまで肩に担いでいた自転車にまたがり、河に沿って道を下る。ペラク河に沿うカンポンタンジャンという部落に入った途端、砲弾が飛んできた。北上してきた英軍防衛隊の砲火の網にかかったのである。幸い暗夜のことで、敵の射程も悪く、運よく軽微な損害で村落を切り抜けることができた。

険しいジャングル道に、激しい降雨、猛獣潜むけものみち、敵軍による弾雨を潜り抜けながら根気強く進軍を続けた安藤支隊であったが、目標地点のクワラカンサル手前八キロまで進んだところで、南方から激しい爆破音が響いてきた。ペラク河にかかる鉄橋、鉄道橋、車道橋すべてが爆煙に包まれ川底に朽ちてしまったのだ。

橋が破壊された以上、力攻めで渡り切る以外に方法はない。日本軍はその場合にも備えて大発・小発などの舟艇を携行していた。各自舟艇に分乗して河を横断する作戦である。渡河地点はふたつ、クワラカンサルと、そこから40キロほど下流に進んだブランジャとよばれる地点である。第5師団はブランジャ、後からやってくる近衛師団はクワラカンサルからというふうに、二手に分かれての渡河決行となった。

まず、自動車両を通行させるための鉄道橋修復工事が舟艇移動に先駆けて行われた。ペラク河の水面から崖上まで十メートル以上という懸崖における難工事であったが、工事を担当した鉄道第5連隊による昼夜兼行の工事作業が続けられた結果、10日間で軽列車の運行が可能になるまで鉄路が修復した。この道路に板を敷き詰めることによって、自動車の通行も可能となる。

安藤支隊は、近衛師団が到着するまで、渡河の準備を推し進めた。12月25日より、近衛師団はクワラカンサル方面から、第五師団河村部隊はブランジャ方面からそれぞれ渡河を開始する。英軍は日本軍の圧迫を受け、疲弊しきった様子で反撃の恐れはないとの情報がマレー情勢を密偵する藤原機関よりもたらされた。敵は援軍の到来を待ったうえで反撃を試みているという情報もあり、すみやかな対岸への移動が望まれた。渡河は粛々と行われ、26日朝までに全行程が終了した。

付記

日本軍によるジットラ陣地の瞬殺攻略は、英軍のマレー防衛計画を一挙に破綻させるほどのインパクトがあった。

もともと、日本軍の侵攻に備え着々と防衛ラインの構築を推し進めてきた英軍であったが、守備隊をシンゴラまで突出させるか、ジットラ付近で待機させるかについて、軍上層部で錯誤と迷走があり、決して一枚岩ではなかった。結果をみると、障害物の多いジャングル地帯に押し込められ、英軍自慢の強力な火力も本領を発揮できなかったと言えよう。日英開戦を睨んでマレー半島に兵力と装備を集中させる「マタドール計画」が、マレー英軍司令官・パーシバル将軍の優柔不断によって頓挫したことも大きい。総合力で劣る日本は、タイ国首相との間で事前交渉を進める根回しの良さと、奇襲作戦を断行する将校の決断力、砲弾の雨を物ともしない将兵の勇気と突破力によって、作戦初動における勝機を掴んだのである。

また、上陸作戦の成功によって河村部隊の歩兵第四十一連隊による飛行場占領も、その後の作戦行動の大きな推進力となった。陸軍第三飛行集団はシンゴラ周辺の飛行場を拠点とし、英航空軍を撃滅、制空権を掌握して第五師団の進軍を援護射撃した。これによってアロルスター、ペナン島占領も容易になったと同時に、英軍の反攻の芽を摘み取ることができたのでる。

一方、ペラク河渡河作戦を決行するにあたり、渡河後の作戦指揮を第五師団にゆだねるか、近衛師団に明け渡すかについて軍司令部で議論があったと『戦史叢書』は明かす。従来の方針であれば、海上機動(マラッカ海峡を渡る渡辺支隊が主力)と渡河後の進軍指揮は遂行能力にすぐれる第五師団主力が適任だが、タイ半島からはるばる進軍してくる近衛師団の労力を考えると、一時的に指揮権の帰属を認めてもよいのではないか、という意見も続出し、軍の行動に小さからぬ影を落とす。

結局、第五師団と近衛師団をそれぞれ別の地点から同日に渡河させる方向で結論が出される。後からやってくる近衛師団はクワラカンサル方面から、第五師団はそこから南へ四十kmほど下ったブランジャ方面からそれぞれ舟艇で着岸したが、近衛師団の渡河準備は安藤支隊が引き受けた。華々しい戦勝の裏で行われた帷幄の議論は、序列や人情に捉われる軍の悪しき習慣がこのときすでに内蔵されていたことを物語っている。

 

参考資料:「戦史叢書」「マレー作戦」「秘録 大東亜戦史」「帝国陸軍機甲部隊」

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

CAPTCHA