フィリピン作戦2|第十四軍、首都マニラを占領

南方油田地帯の確保に向け、フィリピン占領を企てる第十四軍とその麾下部隊は、上陸から進軍まで破竹の勢いで突き進み、首都マニラを陥落させた。

米極東軍司令官ダグラス・マッカーサーはフィリピン政府首脳や幹部を連れてコレヒドールへ撤退。峻険な峰に囲まれたバターン半島に主力を移し、日本軍を誘い込んで持久戦に引きずり込むのが狙いであった。

第四十八師団リンガエン湾、第十六師団ラモン湾上陸

マニラ攻略作戦の主力は、第十四軍直轄部隊と、第四十八師団(師団長・土橋勇逸中将)である。

上陸ポイントであるリンガエン湾は、ルソン島西岸の奥深い入り江で、バギオやサンフェルナルドといったフィリピンの主要都市と近接していた。ここから上陸して進軍すれば、行く先々で防衛ラインを敷いて待ち構える米比合同軍と対峙することになる。第四十八師団の任務は、敵の前線部隊を撃砕し、すみやかにルソンの喉元・マニラまで兵を進めて首都を攻略することにあった。

第四十八師団は12月17日から18日にかけて、台湾の港から出港し、22日に上陸を果たす。上陸掩護の露払いを務めたのは、開戦初頭で米比航空軍の大半を撃滅した第五飛行集団だ。ルソン北部の制空権を握り、各飛行場から飛び立った陸軍の精鋭機たちは、鋭い攻撃で敵軍を鎧袖一触。上陸軍を強力に援護した。

軍司令部と第四十八師団、意見が合わず

折しもこの時期、南シナ海は台風の影響で北東からの風が強く、激しい波しぶきと大雨が輸送部隊の前に立ちはだかり、上陸は困難が予想された。

いくら日本軍の士気旺盛、高ぶる勇猛精神があったとしても、猛り狂う自然の前では無力に等しい。唯一幸いだったのは、航空戦の勝利によって米空軍に邪魔されず上陸作業を進められたことであった。

過酷な環境の中でも、第四十八師団はリンガエン湾進入を果たし、上陸に成功する。しかし、一部船団の揚陸作業が高波のため遅れてしまい、重砲などの上陸は翌日以降に持ち越しとなった。先を急ぐ一次上陸部隊は軽装備のままで前進を強行、そこでは強力な装備に守られた米比防衛軍が待ち構えており、軽装備の日本軍は厳しい戦闘を強いられた。

第四十八師団に組み込まれた軍直轄の上島支隊(歩兵第九連隊基幹)は、敵の分厚い防衛線も何のその、果敢に弾雨の中を飛び込み、敵を倒し、倒されつつ着実に拠点を攻め落としていく。もともと不利な情勢での進軍だけに、仲間たちの犠牲は計り知れない。敵の機銃掃射を浴びて打ち倒れた仲間の屍は次々に波打ち際にさらわれ、浜辺は鮮血で真っ赤に染まった。戦場の厳しい現実は、まったくもって容赦ない。友軍は悲しみに暮れる余裕もなく、七生報国の思いで次の目標地点へと駒を進めた。

23日、第十四軍司令官本間雅晴中将がサンフェルナルド南のバウアンに上陸し、作戦司令部を置いて現場との連絡・命令ラインを固める。米軍を追い出したとはいえ、ここはフィリピンという外国人が住む地域。いきなり上陸して占領を開始した日本軍に対して、反乱を企てないとも限らない。本間司令官は、治安維持を目的に上島支隊の一部にサンフェルナルドの警備を下令。そして、バウアンに兵力を集中させ、いまだ海上に待機している輸送船団の上陸援護に務めるよう指令を出した。

先に上陸を果たした第四十八師団は、その多くをフィリピン人義勇軍に頼る対敵能力を鑑み、このまま勢いに乗ってマニラに突き進むべきを進言する。しかし、敵の反抗侮りがたしと判断した軍司令部は、完全に装備の揚陸を完成させてから前進すべきことを強調し、両者は真っ向から対立した。軍と師団との間で意見が合わなければ、作戦行動に関する決定判断は難航せざるを得ない。軍内部でなかなか意思統一が図れないところに、わが日本軍の弱点が伏在していた。

ルソン島のほぼ真ん中を縦断するアグノ河を真っすぐ南下すれば、そこはフィリピンの心臓部・マニラだ。早く首都占領を推し進めて手柄を立てたい第四十八師団は、ここまで来て足を止められていることに苛立ちを隠せなかった。そんなふうだから、第十四軍の牧作戦参謀が第四十八師団司令部を訪れて進軍を控えるように要請しても、師団参謀の川越参謀はこれをはねのけ、結果的にアグノ河南進を強行する。

24日、四十八師団に編入された先遣部隊の田中支隊がビナロナン付近で米比の砲兵部隊約300を撃破し、そのままポソルビオ付近の米軍宿営地を襲撃。日没後には首都間近のビナロナンに到達した。北部ルソン屈指の町である同地の占領に成功してアグノ河を渡河すれば、もうマニラは目と鼻の先だ。

昭和初期以降、陸軍内で蔓延した下克上の空気による弊害であろうか。ここまで来れば司令部も第四十八師団の進軍に追随せざるを得なかった。

第十六師団の進軍状況

第四十八師団に先駆け、台湾を出港した第十六師団も、24日未明ラモン湾に進入。マウバン付近およびアチモナン、シャイン間の海岸に上陸を果たす。上陸作戦の主力は、廣部隊および村部隊が務めた。

マウバンの上陸戦では、米軍の激しい砲射攻撃にさらされる中、ベルリンオリンピック棒高跳びで西田修平選手と2位・3位を分け合った大江季雄選手(少尉・小隊長)ほか数名が戦死を遂げた。大江選手の手当てにかけつけた軍医は、偶然にも彼の実兄で、悲しい対面を果たすことになる。

30日、第四十八師団の安部部隊(歩兵団長指揮の左縦隊第一梯団)は、その一部をもって米比軍を排撃しながらカバナツァン北方からパンパンガ河を渡河、カバナツァン北方の占拠に成功した。

タルラックの占領を命じられた菅野支隊および軍直轄の上島支隊は、30日朝、タルラックに向かい前進。同地付近で待ち構えていた戦車十数両、砲数門を有する数百の米比軍と交戦となり、この戦いで支隊長上島大佐が壮烈な戦死を遂げた。

わずかな兵力で物量に勝る敵兵団に真正面から挑み、過労や栄養失調と闘いながらも前進をやめなかった上島支隊長。この勇敢なる戦士の死を乗り越え、部隊は首都マニラを占領する。

マニラ非武装都市宣言出される

日本軍の侵攻が迫る中、マッカーサーはマニラを脱出し、コレヒドール要塞に立てこもった。

12月27日、日本軍にとって予想外の事態が発生する。首都マニラに出された『非武装都市宣言』である。

「マニラをいかなる攻撃からも救うため、ここに非武装都市となったことを宣言する。ただちにアメリカ高等弁務官も、フィリピン政府も、すべての軍事施設も、できるだけすみやかにマニラ付近から撤退する。これよりマニラは、警察当局が責任をもって治安の維持にあたることになるから、市民はそれに服従・協力すること」

第十四軍では、すみやかに残敵を排除し、一挙にマニラを攻略する作戦計画が求められた。

マニラを占領、しかし……

元旦、第十六師団がマニラ南部に進入、軍港などを占拠した。とくに海軍根拠地設定予定地であったキャビテ港を手中に収めた成果は大きかった。事前にマニラ北部は土橋兵団、南部は森岡兵団の担当で了承を得、無用な巧妙争いを避けた配慮が功を奏したと言える。

マニラに入った後は、ただちに治安の回復と警備につとめた。歩兵第二十連隊の二個大隊および歩兵第二十連隊の一個大隊をキャビテ、同第三十三連隊の一個大隊をバタンガスに、そのほか少数部隊を南部ルソンの要地に配置した。3日までに日本総領事館員以下在留邦人全員3500名の救出も、大きな弊害なく成功する。

マニラを占領下に置いたとはいえ、米軍は大なる損害もなくバターン半島へ撤退。要塞に閉じこもって徹底抗戦する構えを見せた。海軍が熱望するマニラ湾の根拠地化も未達成ということもあり、軍司令部の間には焦慮の色が広がった。

マニラ占領を早期に完遂するも、米軍をむざむざ逃す失態について、軍作戦参謀・佐藤徳太郎中佐はこうした見解を述べている。

・米軍の行動予測やルソン島の地勢に関する状況判断の誤りが生んだわが軍の失策である。要地を攻略しても、敵の兵力を温存させては支那事変における南京占領の二の舞となることに、もっと警戒を強くすべきであった。

・マニラ湾要塞に関する情報収集と分析が極めて甘かった。とくに、バターン半島とコレヒドール要塞の重要性に関する認識が欠けていた。

・米国の歴史、国民性、伝統に関する研究が足りなかった。

マッカーサーのマニラ“戦略的撤退”作戦は、極めて用意周到に計画・準備されていた。

日本軍のリンガエン湾上陸を見こし、極東司令部はマニラまでの防衛陣地を築いていた。それは敵の撃滅が目的ではなく、バターン半島への撤退までの時間稼ぎの陣地に過ぎない。北部ルソン部隊も南部ルソン部隊も、主力の撤退の目途が立てば防衛陣地を放棄して即、撤退に転じる作戦だったのだ。

ケソン大統領、セーヤー高等弁務官とそれらの家族、吏員らは12月24日午後、極東司令部は同日19時以降、ともに内海汽船によりコレヒドール島へ移動。また極東航空軍司令官ブレリトン少将も同日飛行艇により豪州へ向かう。アジア艦隊(ハート提督)も、12月26日マニラを撤退した。

日本軍が進入を果たした後の首都マニラは、米軍首脳部が立ち去った後であり、「もぬけの殻」同然であった。

日本の飛行集団はバターン半島に撤退する米軍への爆撃を行い、それなりの損害を与えるも、致命的に破壊するまでには至らなかった。

かくして、日本軍はルソン島の大部を占領するも、マニラの喉元にあたるバターン半島において、米軍の要塞化を許してしまう。しかし、この時点ではまだ、第十四軍司令部の見立ては甘く、九竜をすてて香港島に立てこもったイギリス軍があっさり降伏したのと同じように、バターン半島およびコレヒドールの米軍降伏も時間の問題、という情勢判断だった。

バターン半島に撤退した米軍を追撃すべく、第六十五旅団が第一線に配置換えとなる。奈良晃旅団長は、軍司令官に、「旅団の素質が悪いので大したことはできぬと思いますが、機会があればぜひ第一線に使っていただきたい」と、本間司令官に希望を申し入れていた。第六十五旅団は応召兵を中心とし、その大半が年かさな兵士で構成された守備部隊。第十四軍は、第六十五旅団をバターン半島の前線に配置し、強固な要害の攻略を試みるも、敵の抵抗は頑強を極め、作戦遂行は難航することになる。

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