フィリピン作戦1|航空撃滅戦と上陸作戦

台湾の南、大小さまざまな島によって構成されるフィリピンは、南方作戦の足場を築くうえで攻略不可避の決戦場であった。

フィリピン作戦を担当するのは、本間雅晴中将指揮下の第十四軍である。破竹の航空作戦で敵の防衛網を鎧袖一触、首都マニラまで一気に攻め上がった。

米支配下のフィリピン

フィリピンは大小約7,100の島からなる島嶼国家で、総面積は約30万㎢、そのうち最大の島は北部のルソン島で朝鮮半島の約半分、南部ミンダナオ島がこれに次ぎ、北海道よりやや小さい程度である。以下、規模の大きさは順次サマール島、ネグロス島、パラワン島、パナイ島、ミンドロ島、レイテ島、セブ島と続く。

フィリピンの首都は、ルソン島にあるマニラで、米国の極東における根拠地であり、古くからフィリピンの政治・経済・軍事の中心都市であった。また、ミンダナオ島のダバオも、フィリピン南部における政治・経済の中枢をなす重要都市である。したがって、日本軍のフィリピン進攻作戦は、真っ先にマニラとダバオを攻略することが戦略上、重要な意味を持った。

フィリピン米軍の軍備状況

日本が日清戦争に勝利して台湾の割譲を受けた頃と時期を同じくして、米国は1898年、スペインとの米西戦争に勝利してフィリピンを獲得した。このとき以来、日米はバシー海峡を隔てて対峙する情勢であった。

フィリピンを手中に収めた米国は、この地を極東の軍事拠点とすべく、港湾・飛行場・守備陣地などを整え、要塞化を進めてきた。仮想敵国である日本がひとたび軍事行動に及べば、植民地フィリピンが主戦場となるのは明白であった。

米国は、在比米軍と現地フィリピン人部隊の混成軍によって対日防衛を図る「レインボー5計画」を策定。日米関係が緊迫する情勢下において、本国から次々に増援部隊が急派され、航空部隊も大幅に増強。フィリピン防衛も当初のマニラ湾重点主義からフィリピン全域に拡大されるなど、日本軍との開戦を想定した積極防衛プランの準備が進められていった。

フィリピンを統括するのは、極東米陸軍司令官のダグラス=マッカーサーである。マニラを防衛する米軍の軍隊区分は大きく北部ルソン部隊と南部ルソン部隊に分かれ、それぞれウェンライト少将、パーカー代将が司令を務めた。米軍地上部隊はおよそ3万1千に達するも、前線部隊の大部分はフィリピン人によって結成された義勇軍で、練度も士気も低く、装備も貧弱であることが予想された。

12月初旬には航空軍も増強され、クラーク飛行場には35機の重爆撃機・B-17が配置される。さらにルソン島の各飛行場には、当時としては最新鋭戦闘機であったP-40の姿が100機以上認められるようになった。

ハート提督率いるアジア艦隊も、飛行艇や潜水艦、重巡洋艦の追加を受け、逐次充当された。11月末には、中国大陸から移設された第四海兵連隊も投入され、海域の防衛ラインは次第に強化されていった。

フィリピン作戦の概要

フィリピン攻略を担当する主力は、陸軍第十四軍(軍司令官本間雅晴中将)である。第十四軍は第十六師団(師団長森岡皐中将)、第四十八師団(師団長土橋勇逸中将)、および第六十五旅団(旅団長奈良晃中将)を中心に構成された。

米陸海軍を撃破しつつ、フィリピン各地への上陸を容易ならしめるために、陸海軍の緊密な連携による航空撃滅作戦が立てられた。そこで第十四軍の上陸部隊を掩護する飛行部隊として、第五飛行集団(飛行集団長小畑英良中将)、海軍の第三艦隊を基幹とする比島部隊(指揮官高橋伊望中将)および第十一航空艦隊(司令官塚原二四三中将)がフィリピン作戦に配属された。

奇襲上陸を前提とするマレー作戦に対し、フィリピン作戦は航空兵力の初期投入によって米空軍を撃破し、制空権を奪取した後に上陸行動を開始する方向で作戦が練られた。

フィリピン上陸部隊の任務は、各地に急襲上陸を果たして飛行場を占拠するとともに、早期に首都マニラを攻略することであった。上陸作戦は、上陸拠点ごとに作戦を担当する部隊が割り当てられた。すなわち、アパリまたはラオアグは田中支隊、ビガンは菅野支隊、バタンは第二十四飛行場大隊、レガスピーは木村支隊、ダバオは三浦支隊および第十六軍の坂口支隊、リンガエン湾には主として第四十八師団、ラモン湾は第十六師団を主力とする部隊である。

リンガエン湾上陸予定の第十四軍主力と、田中支隊および菅野支隊は台湾から、木村支隊および三浦支隊はパラオから出撃し、暗夜ひっそりと洋上移動して上陸拠点へと向かった。

 

 

マニラの要地攻略か、敵軍の撃滅か

大本営はフィリピン作戦の立案当初から、マニラの要地攻略に重点を置いていた。しかし、10月初頭、陸軍大学校で行われた南方作戦の会議において、第十四軍参謀長前田正美少将は、マニラ攻略にあたって米西戦争の故事を引き、「敵軍はバターン半島に撤退して要塞に閉じこもる可能性がある。その際の作戦はいかに考えるか」と問題提起。しかし、南方軍参謀側はマニラ占領こそが本作戦の枢要であると説き、敵軍の撃滅はその後に処理すればよいとしてその問題は棚上げとなった。

結果的に作戦目的はマニラ占領に重点が置かれ、米地上軍の駆逐は二次目的と決まった。しかし、対英英欄戦争における陸軍南方作戦計画では、「フィリピンに対する作戦目的は、在比米軍を撃破し、その根拠地を覆滅するにある」と明記され、敵軍の殲滅と首都攻略は車の両輪であったことが分かる。

前田参謀の危惧した通り、米マニラ防衛軍はバターン半島へ撤退し、追撃した日本軍を苦しめることになる。

作戦成功の可否を握る航空撃滅戦

フィリピン作戦で機先を制したのは、日本陸海の航空部隊であった。その主力となるのは、陸軍の第五飛行集団と、海軍の第十一航空艦隊である。陸軍戦闘機の航続距離の関係から、ルソン島北部は第五飛行集団、ルソン島中・南部は第十一航空艦隊が敵航空軍撃滅を担任した。

作戦が決行されたのは12月8日の暁闇、このときすでにハワイでは機動部隊の空襲攻撃が敢行され、日米は開戦状態にあった。マニラ方面における敵の警戒は相当な厳重が予想されたが、それ以上に日本軍を悩ましたのはフィリピンの不安定な天候状況である。台湾基地から飛び立つはずの第十一航空艦隊は、あいにくの濃霧に遮られ、離陸不能で待機を余儀なくされた。

一方、陸軍の第五飛行集団は、霧の少ない中国大陸の佳冬、潮州を飛行場基地としたため、天候に左右されることなく離陸に成功。9時30分ごろ、飛行第八戦隊がツゲラオ飛行場を、飛行第十四戦隊がバギオ兵営を爆撃して航空戦の口火を切った。

9時過ぎから、ようやくフィリピン上空の視界も見晴らせるようになり、海軍航空部隊に発進命令が下された。約200機の大編隊は、米空軍の主要基地であるクラーク飛行場とイバ飛行場を爆撃。敵の爆撃機や戦闘機などを100機近く撃滅して帰還した。この攻撃で両飛行場は壊滅的な損害を被った。

日本の陸海共同作戦による航空戦で、極東米航空軍は開戦初日で兵力の過半を失うことになる。

翌日以降も第五飛行集団および第十一航空艦隊は積極果敢に航空攻撃を展開し、飛行場や港湾施設に爆弾や射撃を浴びせた。10日、第二撃へと向かった第十一航空艦隊がマニラ周辺やデルカルメンの両基地、そして米比軍のアジア根拠地であるキャビテおよびマニラ湾在伯艦艇に爆撃、銃撃を加え、多数の米飛行機を撃破した。

敵の抵抗は終始消極的で、開戦から約一週間にして日本軍は航空作戦の大勢を決した。残存敵機はフィリピン中南部に数十機が散在するのみで、対する日本軍飛行機の損害は極めて軽微であった。

先遣部隊の上陸

陸海共同作戦による航空撃滅戦の成果もあり、先遣部隊と主力部隊の上陸行動は作戦通りに推進された。

まず、第三急襲部隊が8日早朝、バシー海峡のバタン島の占拠に成功。水上機地と航空基地を迅速に設定した。約490名の陸戦隊による泊地揚陸と進撃が、フィリピン領土における日本軍の最初の戦闘行動となった。

アバリ飛行場の占領を主任務とする田中支隊は、7日16時30分、海軍艦艇の護衛下、台湾の馬公(マコー)を出撃してアパリ上陸を目指した。開戦劈頭による航空作戦の成功もあり、米軍の妨害を受けることもなく、10日4時にアパリ泊地に投錨、6時に揚陸を開始した。アパリ飛行場の占領を夕方までに完了したが、この間、護衛に回った海軍艦艇が飛来してきた米爆撃機の攻撃を受けた。

13時30分ごろ、米爆撃機が放った爆弾を受け、第五水雷戦隊旗艦の「名取」が損傷を受け、将旗が駆逐艦「長月」に移された。この他、駆逐艦「春風」も爆撃を受け、多数の戦闘員が死傷した。

ビガン飛行場とラオアグ飛行場の占領を主任務とする菅野支隊は、7日18時、輸送船6隻に分乗し、海軍護衛下、馬公を出撃してビガンへ向かった。10日1時45分、先発部隊の田中支隊より早く泊地への投錨を果たす。5時30分、敵からの抵抗もなく、上陸に成功した。

上陸後、ビガン上空にも米爆撃機と戦闘機が飛来し、艦艇に度重なる銃爆撃を加えた。この攻撃で第十号掃海艇が撃沈され、戦死者79名という被害を出した。そのほか、駆逐艦「村雨」、巡洋艦「那珂」が激しい攻撃を受け損傷、輸送船大井川と高雄丸の2隻は擱座するという被害に見舞われた。

占領したビガン飛行場へは、翌11日に第五飛行集団の飛行部隊が前進し、戦闘機18機が配置された。菅野支隊は翌12日にラオラグ飛行場の占領にも成功する。

レガスピー上陸を目指す木村支隊は、8日9時、海軍第四急襲隊護衛の下、パラオを出撃した。11日23時50分にレガスビー泊地に投錨し、揚陸を開始。米軍による抵抗もなく、9時に飛行場の占領を果たす。その後、リンガエン湾上陸を試みる第十四軍主力と作戦策応すべく、北上を開始した。

同じくパラオを出撃した、第五戦隊(司令官高木武雄少将)を主力とする海軍南比支援隊は、8日早朝、第四航空戦隊(航空母艦龍驤、駆逐艦汐風)をもってダバオを空襲した。同戦隊は木村支隊のレガスピー攻略を後方支援する任務も果たし、完了をもってパラオへと引き揚げた。

極東米空軍の作戦根拠地であったルソン島各地の飛行場は、開戦一週間足らずで日本軍の前進基地として再整備され、基地航空部隊の牙城となった。

 

 

 

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