マレー作戦1|侘美支隊、コタバルに奇襲上陸!

大東亜戦争劈頭、南方進撃の一環として断行されたマレー作戦。英領マレー北部に上陸した陸軍の先遣団は、そこから1,000kmに及ぶ距離を疾風迅雷の勢いで走破、英国東洋支配の根拠地・シンガポールを一路目指した。

“東洋の電撃作戦”とまで言われたマレー作戦の口火を切ったのは、第十八師団から抽出された侘美浩少将率いる歩兵部隊、通称“侘美支隊”であった。

マレー作戦計画の概要

日本が大東亜戦争に踏み切った大きな目的は、南方最大の油田地帯、インドネシアの占領であった。

日本軍がオランダ領インドネシアに進軍を果たすには、フィリピンやマレー半島を速やかに占領下に置く必要がある。フィリピンはアメリカ、マレーはイギリスの植民地状態にあり、両国軍の航空機や軍艦が絶えず厳重な警戒監視網を敷いていた。

日本は、南部仏印への進駐を推進するとともに、中立国タイと交渉して空軍施設建設に着手し、南方における作戦行動の足がかりを築く。日米交渉の進展が危ぶまれていた昭和16年8月頃、マレー作戦を担当する陸軍第二十五軍が海南島に派遣され、密かにマレー半島上陸作戦に向けた訓練と物資輸送が開始された。

第二十五軍の行動計画

マレー作戦の任務下命を受けたのは、山下奉文中将指揮下の第二十五軍。近衛師団、第五師団、および第十八師団を主力とする精鋭集団で、各師団は昭和16年8月、マレー作戦実行部隊の内命を受けた。

また、マレー作戦は陸軍兵士と物資の長距離海面移動を前提とし、陸軍の第三飛行集団(飛行集団長・菅原道大中将)および海軍の南遣艦隊(司令官・小沢治三郎中将)傘下の第二十二航空部隊が上空掩護の任務を帯びた。多くの困難が予想される中で断行された本作戦は、陸海軍の緊密な連携に万事を託し、来る開戦の日に照準を合わせて演練および装備の充実が図られた。

第二十五軍のマレー作戦計画の骨子は次の通り。

  • 第五師団を主力とする上陸部隊は、海南島三亜港を12月4日出港。海軍護衛艦の掩護下、開戦日(12月8日)にタイ領のシンゴラ、コタバルに奇襲上陸。
  • シンゴラへの上陸は第五師団基幹の右翼隊、コタバルへは第十八師団主力の侘美支隊が任ずる。
  • 陸軍飛行部隊の作戦を容易ならしめるため、シンゴラおよびコタバルの飛行場を速やかに占領。それと同時に国境を突破し、アロルスターおよびべトン方面よりペラク河に沿って突進、英軍が橋梁を破壊する前に進軍を果たす。
  • 第三飛行集団(飛行集団長・菅原道大中将)は海軍航空部隊と協同し、輸送船を上空掩護する。

開戦日を12月8日と定めた大本営は、西太平洋方面(真珠湾攻撃)、南方(フィリピン作戦、香港島攻撃)、中部太平洋方面(グアム侵攻)にて同時多発奇襲を仕掛ける作戦プランを立案。この中に、南方資源地帯を確保するうえで極めて重大な意味を持つマレー作戦も組み込まれた。

マレー作戦は、12月に進軍を開始し、5月を目途に作戦を完了させるスケジュールで計画立案される。というのも、熱帯雨林地方のマレー地域において、雨季がはじまる5月以降の陸地進軍は事実上不可能と見られていたからだ。

そして、本作戦のハイライトともいえるシンガポール攻略の可否は、敵の妨害を乗り越えながらマレー半島の各要衝を確実に押さえつつ、90日以内に1,000kmの距離を縦断できるかどうかにかかっていた。

海南島からマレーまで2,000km

12月4日、先遣部隊2万の将兵団を皮切りに、第二十五軍を乗せた輸送船団がマレー半島東岸へ向けて海南島三亜港を出港。船団は、輸送船17隻、病院船1隻の合計18隻。先頭鑑から最後尾の船団まで7kmの大集団が南シナ海に勇躍航海の列を作った。

海南島からマレー半島東岸のコタバル上陸地点までの距離は、およそ2,000km。インドシナ半島に沿って南下し、ボルネオ海を経てタイ湾(現・タイランド湾)に進入。すでに英空軍の勢力圏内に入っており、いつ英国艦隊や英空軍戦闘機の攻撃を受けるか分からない状況であった。作戦部隊は海軍の護衛艦と第三飛行集団の援護を受けながら、隠密裏に洋上を進んでいく。

6日13時30分頃、英空軍の大型偵察機一機の姿が確認された。ただちに第十二、二十二航空部隊の戦闘機が仏印基地から飛び立ち、臨戦態勢を取るも捕捉かなわず敵の遁走を許してしまう。

イギリス軍は、日本軍の上陸ポイントをマレー北部のシンゴラであると早くから予見しており、それを防ぐための『マタドール計画』(日本軍が上陸する24時間前に応援部隊を現地に派遣する)を準備していた。しかし、英軍司令官の判断によって同計画は発動されず、大規模増派もついになされることはなかった。結果として日本軍は救われることになる。

輸送船団の上空掩護を任じられた第三飛行集団は、タイ国内に建設された陸軍航空基地から飛び立ち、日没を過ぎた後も上空で警戒網を張って英空軍および英国艦隊の攻撃に備えた。

マレー作戦の航空戦に使用された一式戦闘機隼は、航続距離が短く、しかも機種変更されたばかりの状況で作戦投入されたため、訓練不足で搭乗員たちの練度も十分とはいえなかった。それでも、菅原指揮官以下、パイロットたちの作戦遂行にかける士気は総じて高いものがあった。

7日の船団掩護には、“加藤隼戦闘隊”として知られる加藤健夫中佐の指揮する飛行第四十六戦隊が日没後に発進し、輸送船団が航行するタイランド湾へ飛び立つ。おりしも天候悪く、激しいスコールに見舞われる中、輸送船団が夜陰に隠れて西進するのを見届けてから帰路に着いた。しかし、途中3機が基地のあるフコク島を発見できず、燃料不足で洋上に不時着。開戦直前に犠牲者を出す悲運に見舞われる。

陸海協同の命がけ掩護も功を奏し、第二十五軍を乗せた輸送船舶は英軍の攻撃を受けることなく、上陸地点であるコタバル東岸を射程圏内に捉えることに成功する。

上陸作戦を強行

ケランタン州の首都・コタバルはマレー半島の北東部に位置し、東アジア最大の軍事要塞・シンガポールへ通じる北の要衝として重要な位置を占めていた。

コタバル海岸から約2kmの地点に飛行場があり、その間にケランタン河の分流が進軍を妨げるような複雑な外堀を形成していた。その周辺をインド兵、オーストラリア兵からなる約九千人の混成部隊が配置され、入り組んだ地形とともに堅固な防御体制であった。

コタバル上陸を担任する侘美支隊は輸送船3隻、総人員約5,300の一旅団クラスの部隊である。8日零時頃、侘美支隊の兵士たちは、密かに輸送船から大発・小発に移乗し、闇夜に紛れて上陸準備を開始する。

<侘美支隊乗船区分>

輸送船 乗組部隊 人員数
淡路山丸 支隊長 侘美少将

歩兵第五十六連隊第一大隊および第五中隊

工兵、砲兵、通信隊など

1,653名
綾戸山丸 歩兵第五十五連隊長 那須大佐

歩兵第五十六連隊第三大隊

工兵、砲兵、通信隊、衛生隊など

1,700名
佐倉丸 歩兵第五十六連隊第二大隊

工兵、砲兵、通信隊など

2,150名

第一回上陸

8日0時10分、コタバル上陸部隊である侘美支隊の発進準備が完了した。支隊長の発進命令を受けて各舟艇は一斉に英軍が守るマレー東岸を目指して突き進む。

各舟艇が横一列に並んで真っすぐ海岸へ向け航行、海岸から約500mのところで、岸辺から機関銃による攻撃をうけた。火砲と機関銃の弾雨が乱れ飛ぶ中、支隊を乗せた舟艇は勇気を奮って直進。しかし陸岸に近くなるほど砲撃と射撃は激しくなり、分厚い硝煙で視界が閉ざされるほどであった。

途中で飛び降りて自力で陸岸まで泳ぎ切ろうとする者、波とともに浜辺に打ち上げられる者、潮流に巻かれて沖合に流される者など、上陸を阻もうとする英軍の乱射攻撃によって兵士たちは翻弄されるも、死の物狂いで何とか上陸を試みる。そして悪戦苦闘しながらも、歩兵第一大隊が上陸に成功。時に8日の2時15分(日本時間)、真珠湾奇襲攻撃が開始される一時間前であった。

海岸から遠く砲撃や射撃の爆音が鳴り響く中、沖合に停泊する輸送船団は第二次上陸の準備を開始する。悪天候に邪魔される中での準備を強いられ、作業がはかどらず出発時間は当初の予定より大幅にずれ込んだ。

ようやく淡路山丸の第二次上陸準備が完了したのは、3時30分ごろ。しかし、飛来してきた英軍機が輸送船団に爆撃を開始。護衛艦艇が入り乱れて対空砲火で応戦し、輸送船も兵士たちが機関銃や高射砲をかついで反撃を加えた。

英軍機の攻撃を受け、淡路山丸は火災炎上、綾戸山丸は爆破した。第二次上陸部隊は、沖合で2隻が火災する姿を望見しながら、岸壁に着岸する。水際に第一次上陸部隊の姿はなく、すでに飛行場へ向け進軍を開始したものと思われた。

第二回上陸

英軍機の攻撃が激しくなる中、輸送船団護衛の第三水雷戦隊は侘美支隊長に船団退避を要請。しかし支隊長は上陸状況を見て作戦続行は可能とし、6時30分までに予定兵力の上陸と物資の揚陸を完了させることを条件に、作戦続行を決断した。

直撃弾を受けて炎上を起こした淡路山丸は、舟艇に移乗できる状態ではなくなり、中隊長美並大尉の判断で隊員全員が上甲板から荒れる海中へと飛び込んだ。彼らは陸海軍の救助艇に運ばれて強硬上陸を果たす。中には、自力で海岸に泳ぎ着き、英軍の火砲を鹵獲して反撃を開始する者もいた。

6時30分を目途に、侘美支隊は第二回上陸作戦を一旦終了、綾戸山丸、佐倉丸は再興をはかるため護衛艦の庇護を受けながらパタニー方面へ退避する。8日日没後反転し、9日黎明から揚陸を再開。夕方までにようやくすべての兵士と物資の輸送を完了した。

一方、英軍の激しい集中砲火の的となった淡路山丸は、長時間炎上を続けたまま海面を浮遊し、12日夜、英潜水艦の雷撃を受けて沈没した。

この淡路山丸は、大東亜戦争における日本側の最初の沈没船となる。

飛行場占領に成功

第一回、第二回ともに無事上陸を果たした侘美支隊は、コタバル海岸の入り組んだ地形とそこに張り巡らされた鉄条網、そしてインド守備隊が放つ砲撃に悩まされながらも、勇猛果敢に前進を繰り返し、機銃掃射で応戦して中洲とクリークを突破。上陸作戦の最大の眼目であるコタバル飛行場を占領すべく、接近する。

飛行場周辺もマレー守備軍に配備されたインド兵が守っていたが、戦意喪失して戦う前に遁走した。支隊は難なく占領を果たし、ただちに軍を駐屯させるとともに、残党軍の掃討とコタバル市街地占領に照準を合わせ、必要な軍備作業に着手した。地上戦では、英軍が誇る重装甲車部隊との対決が予想された。

翌9日、侘美支隊第三大隊は、またも夜闇に乗じてコタバル市街に突入、迫る英軍を追い払い、疾風のごとく進軍し、鎮圧する。日本軍はこの一戦が重装甲車両と本格的な戦争の初体験であったが、手榴弾を上手く使った戦法で撃破した。

上陸作戦と飛行場占領、コタバル市街戦の中で、侘美支隊の死傷者は700名を超えた。支隊に編成された衛生隊が負傷者の治療にあたり、負傷兵は市街に建設された医療施設に収容される。この野戦病院は後に、マレーシア住民にも開放、市民病院として利用されるようになる。

マレー北の要衝・コタバルを占領下に置いた日本軍の戦いは、指揮官の果断と海・空からの分厚い護衛、そして部隊の高い指揮と統率のとれた作戦行動が導き出した勝利であった。

大東亜戦争最初の沈没船被害を出し、死者も300名を超えるなど、日本側の損害も決して小さくなかったコタバル上陸作戦。マレー半島1,000kmを走破する驚異の機動作戦は、この戦いによって幕を開けた。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

CAPTCHA