もうひとつの真珠湾奇襲“特殊潜航艇による特別攻撃”

日露戦争の旅順港閉塞作戦を戦った軍人に、戦艦富士乗艦の横尾敬義少尉という人がいました。彼は、魚形水雷を体に巻き付け、海中を泳ぎ切って敵艦に体当たりするという、向こう見ずな肉弾戦法を試みた猪突猛進のサムライとして知られます。彼のその戦法にヒントを得て生まれたのが、小型潜航艇・甲標的(特殊潜航艇)です。

特殊潜航艇による特別攻撃で散華した岩佐直治中佐(戦死後2階級特進)以下9名の乗組員たちは、戦中「九軍神」として、その尽忠報国の勇気を称えられました。

特殊潜航艇とは?

ハワイ作戦は、南雲忠一中将麾下の空母機動部隊による「空」からの攻撃と、清水光美中将率いる第六艦隊による「海」からの潜航攻撃および探知活動からなる統合作戦でした。

第六艦隊を構成するのは潜水艦兵力で、第一潜水部隊・第二潜水部隊・第三潜水部隊並びに、特別攻撃隊、要地偵察隊、補給隊によって区分されます。第一潜水部隊に編入された特別攻撃隊とは、超小型潜水艇とも呼べる特殊潜航艇による、決死の攻撃任務を帯びる極秘の先鋭部隊です。

真珠湾に近接した母艦から出艇した特殊潜水艇群は、敵主力艦が在伯する湾口まで肉薄し、一中必殺の魚雷攻撃をもって在伯艦を奇襲。そして味方の空襲から難を逃れた敵艦艇に対しても湾口付近で迎撃して反撃の芽を摘むと同時に、不時着搭乗員を救出する作戦目的も秘めるという、極めて重要な役割を与えられていました。

小型軽量の二次電池のみで稼働する特殊潜航艇は、乗員二名、総重量四十六トン、全長二四メートル、直径二メートル弱で、兵装は四十五センチ魚雷発射管二基のみ搭載。潜望鏡はごく短小な特眼鏡を採用し、羅針盤としてのジャイロコンパスも小型サイズという、原型の縮小に合わせ何から何までミニマム化の設計での建造でした。

この作戦では、敵駆逐艦艇による厳しい哨戒網を潜り抜ける必要があるため、乗員たちが無事生きて帰還できる可能性は極めて低いと言えました。しかし、特殊潜航艇の湾内進入、帰還から母艦への早期収容まで確実な対策をとることを条件に、特別攻撃隊はハワイ作戦の一部に組み込まれることになったのです。

なお、特別攻撃隊の名称について、第六艦隊司令長官・清水光美中将がのちに、「決死隊という呼び名はその名の如く兵士が命と引き換えに任務遂行にあたるという意味が込められているが、特殊潜航艇による攻撃プランは乗員たちの帰還が大前提の作戦であるから、決死隊という言葉は避けて特別攻撃隊と称することになった」と回顧するように、終戦間際の神風特別攻撃隊とは全く別物の作戦です。

発案当初は艦隊決戦向けに編み出された

特殊潜航艇の着想

特殊潜航艇

特殊潜航艇を使った攻撃作戦のプランは、昭和6年頃に生まれ、海軍艦政本部内で極秘に作戦計画が立てられました。

当時、ワシントン条約の制限により、日本の艦隊戦力は米英に対して5:5:3の比率に抑え込まれていました。現有戦力によってこの比率を破り、彼我との戦力差を埋めるには、独創的な着想と過酷な訓練に頼るしか方法がなかったのです。

艦政本部の研究によって、速力三十ノット・射程六万メートル・二次電池を動力源に持つ魚雷形態の小型潜水艇が兵器としての要件を満たすことが分かりました。

早速艦政本部は昭和7年、呉海軍工廠魚雷実験部に試作艇を製造させ、昭和8年8月伊予灘において無人航走試験を実施し、速力二十四.八五ノットを記録。計画目標ではアメリカ戦艦の速力二十ノットの1.5倍である三十ノットも記録しましたが、安全性を考慮したのと、事後の帰投のための司令塔を設置したことで速力が低減したとのことです。

小型特殊潜航艇を運搬するための母艦建造計画も進められました。昭和9年11月に特殊潜航艇搭載型母艦として「千代田」が竣工し、潜航艇の構造や操縦を学ぶ甲標的講習は基本的に母艦千代田で実施されました。

従来における潜水艦の使用方針

従来、潜水艦は水上艦隊の補助戦力という色合いが濃かったものの、時代の変遷によって求められる役割と性能は変化を辿りました。特に、5:5:3の劣勢をどう打ち破るかという観点から、潜水艦の持つ攻守の性能を引き出す部隊編成が急務の課題でした。

そこで日本海軍は、潜水艦のみで構成される部隊編成に着手します。新旧の大型潜水艦を組み合わせ、伊十五型(新巡潜型潜水艦)を主とする第一潜水戦隊、伊一型(巡潜型潜水艦)を主とする第二潜水戦隊、伊六十八型(新式海型大型潜水艦)を主とする第三潜水戦隊の三個潜水戦隊からなる潜水艦隊が編成されたのです。

これがハワイ作戦において機動部隊と行動を共にする第六艦隊で、作戦の特性から先遣艦隊とも呼ばれました。艦艇による海の警固は、潜水艦をもって哨戒にあたり、開戦時は潜水艦が放つ魚雷をもって口火を切るという、これまでの洋上戦略にない兵術思想の誕生です。

そして潜水艦の哨戒監視、触接行動、接敵攻撃における能力値は、すべてが仮想敵国である米国との戦争行動を基礎に求められました。

海軍の対米戦略は、西進する米国艦隊を国防ラインで迎え撃つ邀撃作戦を基本とします。その中で潜水艦の運用方針は、開戦と同時に敵艦隊にピラニアの群れの如く襲い掛かり、兵力を減衰させる第一線部隊としての役割を任されたのです(海軍はこれを漸減作戦と呼びました)。

このときすでに甲標的という名称で試作艇が製造されていた特殊潜航艇も、艦隊決戦用として使われるのが当初の目的でした。

湾口奇襲構想に、山本五十六長官は……

艦隊決戦用の奇襲作戦に使用される予定の特殊潜航艇は母艦千代田に搭載され、千代田艦長の原田覚大佐の指導の下、岩佐直治、秋枝三郎両中尉をはじめ千代田乗組の准士官・下士官たちが甲標的乗員として操縦訓練などに励みました。

この中の岩佐直治中尉(開戦直前に大尉となる)から、特殊潜航艇の用法戦術に関し、ひとつのアイディアが提案されます。それは、いわゆる「港湾襲撃」で、潜航艇の魚雷攻撃で湾内の在伯艦に一打を浴びせる作戦。潜航艇を奇襲攻撃用に転用する案は、この岩佐大尉着想によるものとされています。

この研究は原田艦長から連合艦隊水雷参謀の有馬高泰中佐に報告されますが、原田艦長の話によると、その後、山本五十六連合艦隊長官から呼び出され、「君から出された甲標的の戦術用法の中で、潜水艦で敵港湾入り口まで進入して攻撃するとあるが」と問われ、艦長は「この案は乗員の発案によるもので、実行の士気はおおいに振るっています」と答えたとのことです。

山本長官は搭乗士官たちの士気に感心しつつ、「航続力のない潜航艇をいかにして湾口に近接させるか、そのうちどの潜水艇が進入できるか、また襲撃後の帰還は可能か、至急研究して生成果を報告せよ」と、特別攻撃の精度について引き続き研究するよう指示しました。

実際のところ、山本長官は特殊潜航艇の特別攻撃作戦を聞いたとき、難色を示したという話も伝わっています。山本長官は決死を前提とする作戦には一貫して否定的な態度を取り、多くの不安がある以上それを完全に払しょくしない限りは特殊潜航艇の湾内侵入など認められないとの見解でした。

岩佐直治中佐

しかし、岩佐大尉の報告が頭から離れない有馬中佐は、戦争が避けられない情勢となった9月下旬、千代田艦長の原田大佐、軍令部潜水艦作戦担当の有泉龍之介中佐らと旗艦長門で極秘の会談を開き、特殊潜航艇の用途についてさまざまな検討を加えました。

特殊潜航艇の活用は洋上決戦の対艦攻撃より、真珠湾に忍び込ませる湾口奇襲のほうが効果を引き出せる、という結論に至るも、作戦終了後の乗員たちをどう収容するか、という問題が残ります。これに対して原田大佐が、「親潜水艦を使えばいい。湾内に散らばった潜航艇が戻ってくるまで数隻の親潜水艦が留まり、確実に収容する体制を整える」と意見を述べました。

この後、三人は山本長官の部屋に出向き、熟議の結果を打ち明けて特殊潜航艇部隊をハワイ作戦に参画させるよう直訴しました。山本長官は、幕僚たちを集めてこの問題について徹底的に討議させます。その結果、特殊潜航艇は第六艦隊の一部に組み入れられ、同艦隊の大型潜水艦が潜水艇搭載可能型に改造することが決定されました。

山本長官は、幕僚と原田大佐たちが話し合う間、時折り頷くだけで自分は意見をひとつも言わなかったとのことです。ただ、決定の際は完全に納得した表情を見せなかったとも伝えられます。

特殊潜航艇の特別攻撃部隊、呉を出港

特別攻撃隊作戦は、その任務遂行とともに乗員たちの収容を期すための正確な方法も案出されました。

攻撃作戦終了とともに、各潜水艇はオアフ島の東南約七十キロにあるラナイ島の西方地点に進路を向けて潜航し、そこには五隻の親潜水艦が乗組員救助のために翌日夜まで待機する、ということになりました。

特殊潜航艇の母艦である千代田の停泊地は、四国北西端の佐田岬半島伊予灘側にある、三机湾です。三机湾およびその周辺海域で、岩佐大尉以下特殊潜航艇の乗組員たちは、出撃直前の11月中旬まで猛訓練に励みました。

訓練の終わり頃になると、場所を三机湾から四国南西端の、真珠湾に地形が近い弁天島近くの沖合に移り、実戦を意識した攻撃訓練が盛んに行われるようになりました。

訓練は主に夜間に実施され、湾内に侵入して弁天島を一周する潜航演練が繰り返されました。生き残った酒巻和男少尉の話によると、「もっとも困難な状況下で潜航から攻撃までをこなせるよう、夜間での行動訓練が課されました」とのことです。

11月の中頃、最後の訓練を終えた特別攻撃隊の隊員たちは十日間の休暇を与えられ、それぞれ帰郷します。原田艦長は隊員たちを呼び集め、こう訓話しました。

「訓練については誰にも話してはならない。身の回りのものを整理して、きれいさっぱりとなり、後のことは何も心配ないようにして帰隊するように。そして両親に対しては礼をつくし、最後の親孝行を忘れてはならない。別れの際も、決してこれが最後などと言わず、長い訓練があるからしばらく帰ってこれないというふうに言っておけ」と言って若い隊員たちを送り出したと言います。

11月18日、特別攻撃隊を乗せた潜水艦は呉を出港。機動部隊より一週間早めの出陣です。特別攻撃隊隊長の岩佐大尉は、寄せ書きに「尽忠報国」としたため、二度と内地には戻らない覚悟で母艦に乗り組みました。

作戦概要と編成

第六艦隊付第一潜水部隊に属する特別攻撃隊の編成および作戦計画の概要は次の通りです。

指揮官:佐々木半九大佐(第三潜水隊司令)

親潜水艦 艦長 艇長 艇付
伊16 山田薫中佐 横山正治中尉 上田定二曹
伊18 大谷清教中佐 古野繁実 横山薫範一曹
伊20 山田隆中佐 広尾彰少尉 片山義雄二曹
伊22 揚田清猪中佐 岩佐直治大尉  佐々木直吉一曹
伊24 花房博中佐 酒巻和男少尉 稲垣清二曹

このうち、松尾敬宇中尉は特別攻撃隊メンバーに加わることを強く希望しましたが、出港直前に任務のため部隊と離れた関係で、仲間たちと名前つを連ねることは叶いませんでした。しかし、松尾中尉は指揮官付となって伊二十二潜水艦に乗艦し、脱落者が出たときの補充要員として乗艦したのです。

<作戦概要>

  1. 特別攻撃隊は呉軍港出港後、途中散開し、ミッドウェーの六百カイリ圏から昼間潜航夜間浮上進撃す(速力十四ノット)
  2. X-一日(12月7日)十三〇〇、真珠湾の十カイリ圏を通過し湾口から約十カイリ地点において湾口確認後格納筒(特殊潜航艇)を発進する。
  3. 筒は侵入後海底に沈座待機し、第一次空襲後、攻撃に転ずる。攻撃終了後、フォード島を左に見つつ湾内を一巡して脱出を図る。
  4. 親潜水艦は日没を待ってラナイ島西方七カイリを中心として浮上待機、第一日目に収容不能の場合は翌日伊十六、伊二十はラナイ島西方、他の三隻は同島南方十カイリ付近に配備し、格納筒搭乗員の収容に努める。

なお、特別攻撃隊による湾内奇襲は、機動部隊側の強い要請で第一次攻撃の後に実行することになりました。潜水艇の出没によって作戦全体が露見しないために、航空攻撃をまず先行させる態勢で作戦統合が行われたのです。

特殊潜航艇を搭載した親潜水艦は、荒波の中で整備に苦しみながらも12月7日夜、予定海域に進入、隠密裏に格納筒を発進させ、海の中で静かに攻撃の烽火を上げました。

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