機動部隊、ついに出撃!洋上で『ニイタカヤマノボレ』を受電

作戦遂行に不足ない状態に仕上げ、択捉島単冠湾に集結した日本海軍空母機動部隊。そこで南雲長官の訓示を受け、搭乗員たちははじめてハワイ作戦の全容と、祖国が対米戦争を決意した事実を知らされます。

しかしワシントンでは、野村・来栖両大使が最後の望みをつないで和解交渉に奮闘していました。

突如として巨大艦隊現る

北海道東端から根室海峡を隔てて横たわる国後島の先に浮かぶ、千島列島最大の島・択捉島。昭和16年11月下旬、北方四島のひとつでもある北の果ての地で、島民たちを騒がす事件が発生しました。

島の中央、丸くくり抜いた跡のようにくぼむ単冠(ヒトカップ)湾に、一隻、また一隻と、今まで見たこともないような巨大な船が続々と出現し、錨を下ろしていきます。23日に最後の一隻――浅海面魚雷の積み込みで出港が遅れた空母加賀―が投錨されるまで、その圧倒的なデモンストレーションが続き、うら寂しい寒村を異様な空気に包み込みました。

単冠湾に集結したのは、空母6、戦艦2、大巡2、軽巡1、駆逐艦9、潜水艦3、給油艦8の合計31隻。さらに大湊警備府から派遣された警備艦艇が加わり、沖合を周回して島内の動きを厳しく監視しました。

巨大艦隊が出没した前日には、演習を理由として島民たちの一切の渡航と通信が禁止され、食料も補給艦による物資輸送での調達が言い渡されました。この厳戒態勢は、真珠湾で奇襲作戦が決行された12月8日まで続くことになります。

北海道千島の冬の到来は早く、寒風に時折り雪が混じる冬景色でした。空母赤城の飛行長であった増田正吾中佐は、日記の中で、「そば屋の2階に集まる赤穂浪士の気持ちさながら」と、そのときの心境をつづっています。

南雲長官の訓示で真珠湾攻撃を知る

23日、新嘗祭の遥拝を済ませた後、機動部隊司令長官南雲中将は各指揮官と幕僚、駆逐艦長を空母赤城に集め、機動部隊命令第一、第二、第三号を下達しました。

第三号「ハワイ作戦空襲計画」の中の「空襲部隊の行動」では、以下の作戦計画の骨子が述べられました。

  • X-1日0600、接敵地点を発し、針路180度(真南)、速力26ノットで進撃する
  • X日0130、真珠湾の零度(真北)二百三十カイリで第一次攻撃隊、0300、同じく二百カイリで第二次攻撃隊発進で空襲を決行

そして翌24日、今度は本作戦に参加予定の搭乗員たちを赤城に集結させ、次のように訓示しました。

  • 宿敵米国と12月8日、開戦する。開戦劈頭でわが空襲部隊が真珠湾上空に殺到し、敵艦隊の一挙殲滅を図る
  • こちら側の勇猛果敢な闘争心を見せつけ、敵の戦意を挫くこと
  • いかなる難局にあっても、冷静沈着な心を失わず、不撓不屈の精神でもって奮起すべし
  • 残された時間を使って万全のコンディションを作り上げ、抜かりなきようにせよ
  • 軍人たるもの、身命は軽く責務は重い。尽忠報国の決心で事にあたり、万一でも君恩に報いようではないか

ここにきてよやく、ハワイ作戦決行が全乗組員たちに通知されたのです。

空襲部隊の飛行総隊長であった淵田美津雄中佐は、自著の中で、「かくて乗員たちの揣摩憶測は吹き飛ばされ、全乗員は歓呼をもってむかえたのである」と述べています。

一部搭乗員たちの間で、「わが部隊はハワイを攻撃するつもりで練習しているのだろう」という憶測がまことしやかに囁かれていましたが、これでようやく曖昧模糊たる心境も氷解し、変わってたぎるような七生報国の精神が、彼らの胸の中で沸き起こったのでした。

出港日はハルノート通告の日

11月26日、早朝の単冠湾は、朝日に照らされた海面が美しくきらめき、穏やかな波間を見せて漂っていました。そこへ、マストのてっぺんに南雲長官の中将旗をかかげた旗艦赤城が、四万トンの自重を感じさせないなめらかさで滑り出し、波を砕きつ東進をはじめます。加賀・飛龍・蒼龍・瑞鶴・翔鶴、そのほか駆逐艦や大巡、軽巡、補給艦なども、規定の出港順序にしたがい錨を上げ、北の海を蹴るように進んでいきました。

入港のときはあれほど騒がしかった島内も、空母部隊の船出は見送りの影ひとつない静けさで、何かの儀式のような雰囲気で行われました。ただひとり、港外の警戒監視にあたっていた海防艦「国後」だけが、「壮途の御成功を祈る」と信号で激励を送ったといいます。

同じ日の26日(ワシントン時間)、野村吉三郎・来栖三郎の両日本大使は、ハル国務長官の求めに応じて国務省を訪れました。そこでハルから手渡されたのは、「日本は状況に関係なく、一切の軍隊と警察を中国大陸および仏印から撤退する」「満州の権利権益を放棄する」「日独三国同盟の死文化」「蒋介石政権以外の中国政権を認めない」が骨子の最後通牒――日本に対米戦争を決意させたハルノートでした。

「ワシントンで行われている交渉の進展次第では、たとえ出撃後でも引き揚げを命じるから、いつでも反転して内地に戻る心づもりだけはしておくように」事あるごとにこう釘を差していた連合艦隊・山本五十六長官の言葉は、ついに現実になることはありませんでした。

12月2日「ニイタカヤマノボレ」

ハワイへ針路を向けた機動部隊が単冠湾を出港してから六日後の12月1日、東条内閣の全閣僚と枢密院議長、永野修身軍令部長、杉山元参謀総長らが出席する御前会議が開催されました。そこでようやく、米英欄との開戦を正式決定する合議がなされたのです。「作戦決行日は12月8日」と定め、天皇に奏請し裁可を得ました。

翌日の午後5時頃、柱島泊地の連合艦隊司令部宛てに、軍令部次長名で「大海令第十二号を発令せよ」という打電が届き、それを受けた山本五十六長官が記名して「予定通り作戦を決行せよ」と連合艦隊へ下令しました。

暗号文は、『ニイタカヤマノボレ』。連合艦隊命令で輻射された電波を、12月2日の午後8時頃、機動部隊の電信員がキャッチし、司令部に伝送しました。

南雲長官以下、作戦参謀の面々は、電信員がもたらした連合艦隊名の作戦緊急信を見て、緊張を感じるとともにほっと胸をなで下ろしたといいます。「これで心置きなく作戦に没頭できる」揺れ動いていた指揮官の覚悟もこれでようやく固まりました。

前出の赤城飛行長・増田中佐は、日記の中で、「すべては決定した。右もなく。左もなく、悲しみもなく、また喜びもなし」と、虚無的な胸中をつづっています。

時代の歯車は、途方もない方向へ回り出そうとしていました。

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