爆撃!雷撃!淵田三津雄率いる海の荒鷲たちの猛訓練

日米交渉が展開される中で、連合艦隊機動部隊は、日米開戦に備えハワイ作戦の計画立案と搭乗員たちの攻撃訓練を推し進めます。

ハワイ作戦は極秘中の極秘プランだったため、内実を知るものは作戦幹部と航空参謀、一部のパイロットに限られました。

つまり大方の搭乗員たちは、訓練目的も作戦場所も知らされないまま、特殊で難易度の高い訓練メニューをこなさなければなりませんでした。

総がかりの航空攻撃で真珠湾を破壊する

ハワイ作戦における航空兵力の中核を担うのが、第一航空艦隊に編成された第一航空戦隊・第二航空戦隊並びに第五航空戦隊です。

これら航空戦隊は、空母6隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍・瑞鶴・翔鶴)に乗艦する飛行隊長をトップとする飛行部隊によって構成され、空母赤城の飛行隊長兼飛行総隊長の淵田美津雄中佐指揮統率のもと、作戦行動を展開します。

空母に搭載される航空機は大きく分けて3タイプ。艦攻・艦爆・艦戦の3種で、それぞれ異なる攻撃要素を持っていました。

  • 艦攻:艦上攻撃機。母艦を持ち、魚雷や爆弾を搭載して艦艇などを攻撃する機種。魚雷攻撃を主とすることから雷撃機とも呼ばれる。
  • 艦爆:艦上爆撃機。空母運用型の爆撃機で、急降下爆撃を主任務とする機種。
  • 艦戦:艦上戦闘機。空母から飛び立ち、艦爆や艦戦を援護しつつ、敵戦闘機や爆撃機を撃ち落とす任務を帯びる。

この中でも、在伯中の敵艦船へ集中的かつ効果的に攻撃を加えるには、雷撃の成功率と水平爆撃の命中率を高めていく必要がありました。

真珠湾は世界一雷撃が難しい軍港

「雷撃の見込みがつかなければこの作戦はやらない」

山本五十六連合艦隊司令長官のこのセリフが示す通り、艦攻による雷撃能力はハワイ作戦において大きなウェイトを占めました。しかし、水深が浅い真珠湾口において、魚雷攻撃が成功する可能性は極めて低く、作戦遂行上、大きな課題となって横たわりました。

真珠湾の水深はわずか12m。空中から放たれる魚雷は、発射高度100m程度で60mくらいの沈度を必要とします。発射高度が高くなればそれだけ沈度も深くなるため、空戦状況によっては100mくらいの沈度を見積もる必要がありました。

そのため、水深が極端に浅い真珠湾で魚雷攻撃を敢行しても、海底に杭を打ち込むようなもので、大きな戦果は期待できません。真珠湾に無用の魚雷墓標を増やしてしまうのが関の山です。

そうかといって、水平爆撃や艦上爆撃にのみ頼るわけにもいきません。水平爆撃はその破壊力と比して命中率が極めて低く、対して急降下爆撃は高い着弾精度を誇るも、それでもって撃沈するまでの威力は期待できません。

徹底的に叩きのめして空母や戦艦を海の藻屑とするには、魚雷を何本もその装甲に打ち込み、機能停止状態に追い込まなければなりません。そうでなければアメリカは、そのあまりある国力でもって早期修復をはかり、倍返しとばかりに大挙して襲来してくるでしょう。

山本長官が「この作戦は雷撃で徹底的にやらないと意味がない」と言ったのは、そうした理由によるものです。

浅沈度魚雷の開発

真珠湾攻撃の雷撃部隊を指揮するのは、空母赤城に乗艦する村田重治少佐です。村田少佐は支那事変でも活躍した歴戦の猛者で、横須賀海軍航空部隊時代は雷撃研究を主任務とし、雷撃の権威とまでいわれた名パイロットでした。

その村田隊長のもと、雷撃部隊は九州の有明湾で必死の訓練を続けますが、手ごたえを掴めるほどの成績には至りません。気が付けば、佐伯湾を出撃することになっている11月17日まで一カ月を切っており、指導部の間で焦燥感が広がりました。

そこで、村田少佐が横空時代に実験研究を重ねた「浅海面発射法」の実用化を進めてみようという結論になったのです。

浅海面発射法とは、魚雷に安定板を固着して空中での挙動を確保し、水中射入後も浅沈度を維持したまま安定操舵力を得るというもの。水平式の安定板装着によって、魚雷は正しい角度から水中へと射入し、操舵の効きもよくなって浅い沈度で安定走行が可能となります。

魚雷の横転という潜在的課題を解決し、浅瀬でも深く沈むことなく高い操舵性を確保できる画期的な航空魚雷方法でした。

魚雷の浅海面発射を可能とする水平安定板は、航空技術廠の片岡政市少佐、航空本部の愛甲文雄少佐はじめ、海軍技術局や長崎の三菱兵器製作所従業員らの血みどろの努力によって生み出され、早速有明湾や鹿児島湾で猛訓練中の雷撃部隊に引き渡されることになりました。

水平安定板を装着した魚雷は、非装魚雷と比べ、確かに操舵性も安定し浅沈度の確保にも期待が持てました。それまで血の滲むような努力をしても、空中発射魚雷のしそう率(魚雷が計画通りに安定走行できる確率)は50%未満だったのに対し、水平安定板を取り付けてから訓練を開始するようになって徐々に成功率を高め、出撃直前頃にはしそう率80%を超えるようになったのです。

この結果に、現場を見守ってきた源田航空参謀も、機動部隊指揮官南雲中将も救われた思いで胸をなでおろしたとのことです。

命中率わずかの水平爆撃

雷撃戦法が重視される一方で、もうひとつの重要な攻撃カードである水平爆撃の研究も進められました。

真珠湾を攻撃する際、どうしても雷撃だけでは不十分な面があります。狭い湾口の奥二列に並ぶ敵艦船を狙い撃ちする場合、外側に碇泊する戦艦(空母)は雷撃で撃沈できるものの、内側に遊よくするもう一隻へはどんな巧手でも魚雷を打ち込ませることはできません。2隻とも撃沈するには、800㎏徹甲爆弾を抱えた攻撃機と力を必要としました。

徹甲爆弾には遅動信管が取り付けられており、装甲甲板を貫通したあと、艦内奥まで食い込んで大爆発を起こさせる仕組みで、弾薬庫に誘爆させれば一発撃沈もあり得るどの破壊力を持っていました。そんな当たれば一撃必殺の威力を持つ徹甲爆弾も、命中精度が群を抜いて低いという欠点を抱えていたのです。

成績上では、雷撃機80%以上、急降下爆撃50%程度という的中率ですが、高高度から爆弾を落下させる水平爆撃の命中率はわずか10%足らず。4000~5000mの上空から、およその照準で爆弾を落下する攻撃だけに、腕のよいパイロットでもうまく装甲版に命中させるのは困難を極めました。

そこで飛行部隊の指導部は、従来からの爆撃戦法を改めさせ、編成の工夫によってテコ入れを図ります。

日本海軍の水平爆撃部隊は九機編成で、編隊長機が最初に行う爆弾投下ポイントを照準にして、列機が順次爆撃を行う「公算爆撃」という戦法を採用していました。これを腕の立つ選りすぐりのパイロットで構成される五機編成に組み換え、爆撃照準は編隊長ではなく、爆撃専門の搭乗員に一任する嚮導(きょうどう)爆撃チームを作ることで、命中精度の向上を狙いました。

爆撃専門チームを率いるのは、加賀飛行隊長の橋口僑少佐、赤城分隊長の布留川泉少尉です。いずれも水平爆撃のエキスパートであり、彼らの指導を受けることでパイロットたちの腕も訓練を重ねるごとに向上し、具体的な成績数字となって表れてきました。

また、長門・陸奥の40センチ主砲爆弾を改造した急造式の徹甲爆弾を採用。それによって3千メートルの低高度でもアメリカ艦船の装甲甲板を貫通できることが分かりました。

低高度であれば、敵の砲弾にやられるリスクが高くなるものの、徹甲爆弾の命中率は反比例で上がります。これには相当の勇気と覚悟を要しますが、淵田美津雄飛行総隊長に言わせると、「勇気なら、あまるくらい持ち合わせていた」。連日の猛訓練に加え、日本海軍の強靭な精神力も爆撃精度を向上させる大きな要素でした。

訓練場所は九州南海域

出撃を控えた機動部隊の第一航空艦隊は、九州各地の基地(鹿児島・出水・富高・笠之原・佐伯・宇佐・大分・大村)に分散し、有明湾や鹿児島湾、志布志湾で猛訓練を重ねていきました。

雷撃隊は、桜島と鹿児島市に押し挟まれたみたいに入り組む錦江湾を真珠湾に見立て、民家すれすれの低空飛行を見せながら何本も魚雷を打ち込む練習を繰り返したといいます。

また、爆撃隊の搭乗員たちは、鹿児島湾に設置された標的艦、あるいは志布志湾の大崎海岸の海軍爆撃場の砂地に描かれた、アメリカ艦船コロラド型標的艦をターゲットに連日爆撃訓練を行いました。

パイロットたちの激しい訓練も、11月17日をもってすべてを打ち切られ、あとは出撃を待つのみとなりました。空母加賀は17日に佐世保を、旗艦赤城と第二航空戦隊の蒼龍と飛龍は18日に佐伯湾を、第五航空戦隊の翔鶴と瑞鶴は19日に別府湾をあとにし、いずれも北に進路をとり波間をけって進んでいきました。

そして数日後には、択捉島単冠(ヒトカップ)湾に集結。空母6隻を中心とする機動部隊の威容を前に、島民たちは騒然となりました。

***

第一航空艦隊の飛行部隊が去った後も、南九州の上空で航空機の爆音が鳴りやむことはありませんでした。というのも、それまで連日の如く上空を飛び回っていた飛行機が、突然パタリと鳴りをひそめたら誰もが不信に思うでしょう。軍の動きをカモフラージュするために、北九州方面の練習航空部隊を一時的に移設させてそれまでの演習を継続させたのでした。

敵を欺くには味方から――。これもまた、ハワイ作戦を成功に導くための、機密保持の一環だったのです。

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