日米交渉4|運命のハルノート

日米が互いに目指してきた平和への道は、ついに晴れずして暗雲のまま閉ざされることに。11月26日にハルが手渡した対日提案「ハルノート」は、独立国家としての日本の未来を打ち砕くものであり、近代国家としての歩みを全否定する絶望のしるしであった。

ハルノートへの評価は難しいものの、当時の日本側の見方ではそれが大勢だったのである。

ハルノートの内容

太平洋秩序の安定化を目指して開始された日米交渉は、約8カ月続けられた。

政府要人や公人、私人問わず、さまざまな人物がこの重要マターに取り組み、互いの思惑と狙いが絡み合う中で努力を積み重ねてきた。しかし、歩み寄りを見せるどころか、提示する内容は次第に先鋭化・硬直化することとなり、悲劇的な結末を避けられずにゲームオーバーを迎えた。

そして日本は、11月26日、絶望のハルノートを手交されることになる。

<ハルノートの骨子>

  • 中国大陸及び仏印からの全面撤退
  • 日満支共同宣言の放棄
  • 三国同盟の死文化
  • 中国における蒋介石政権以外の政権の否認

この内容は、日本が国益を死守するうえでもっとも重要視する「中国大陸および満州における権益」の全面放棄を要求する極めて厳しいものであった。

それはつまり、日本が明治維新以降、丹念に積み上げてきた努力を無に帰すもので、到底受け入れられる内容ではなかった。

そして、そのことは米国も承知であった。

翌27日と30日に開かれた政府大本営連絡会議では、もはや和戦に関する討議の余地はなく、対英米欄開戦に向けた議論を粛々と行うのみであった。

 

ハルノートの影にコミンテルン

当初、日本側への提案はハルノートとは異なる内容のものだった。国務省は日本との開戦を回避するために、融和的な暫定案を提出する予定だったのである。

しかし、ハルはその案の採用を拒否。代わりに採用したのが、財務省高官ハリー・ホワイトが作成した案である。

ホワイトはこれにさきがけ、ワシントンに来ていたソ連の工作員と接触し、対日強硬案を作成。モーゲンソー財務長官がそれを受け取ってハルに手渡した。

ハルは案の中身を見て、「良い点もある」としてこの内容で最終案とすることに決めたという。

ハリー・ホワイトなる人物は、日米戦争を画策したソ連が送り込んだコミンテルン・スパイであったことが今では明らかとなっている。

実は、ホワイトハウス内ではソ連による赤化工作が相当浸透していて、ルーズベルト大統領周辺や国務省内にかなりの数のコミンテルン工作員が入り込んでいた事実が、1995年に米国で公開された『ヴェノナ文書』で明らかとなっている。

日本を追い詰めたルーズベルトの対外政策に、ソ連の工作が少なからず影響を与えた面は否定できない。世界を震撼させた「ゾルゲ事件」が物語るように、同じことは日本に対してもいえる。

日米の中枢部を浸食したソ連の謀略については、また別の稿で詳しく述べることとしたい。

日本の外交暗号はすべて解読されていた

ハルの最後通告は、米国がすでに日本との戦争決意を固めていた事実を意味する。

国務省もホワイトハウスも、日本側の思惑や動きを熟知したうえでうつろな外交交渉を続けていいたのである。東京から野村大使に送られる電報は、米国の暗号解読チームが受電してそのほとんどの暗号解読に成功していた。

「東京からワシントンその他の首都に送られる日本政府の通信は、魔術(マジック)と呼ばれる解読情報によってすべて把握していた。日本の外務大臣が野村その他の代表に送っている訓令の多くと、野村が私との会談について東京に送っている報告も知ることができた……もちろん、私はこういう特別の情報を握っているという印象を少しでも野村に与えることのないよう注意しなければならなかった」

「我々がこれを知っていたのは、陸海軍の暗号専門家が驚くべき手腕を見せて日本の暗号を解き、東京からワシントンその他の首都に送られる日本政府の通信を解読したうえ、翻訳して国務省に送り届けていたからである」(『ハル回顧録』)

ハルの言う暗号解読の専門家とは、ウィリアム・F・フリードマンのことであろう。フリードマンは大がかりな暗号解読組織を組んで日本海軍及び外務省の暗号解読に血みどろの努力を続け、ついにその難問を突破したといわれる。

フリードマンは国家に貢献した民間人に送られる「民間人特別功労章」を受賞し、戦後になって「最高功労賞」そして「国家安全保障章」を受賞した。民間人でこの三賞を受けた人は他に例がない。

それはともかく、日本は丸裸の状態で米国との交渉に臨まねばならない状況であった。この時点で日本政府や外務省によるさまざまな駆け引き、打算、工作、配慮も、ほとんど気休めに過ぎなかったことになる。

米国が吹かす笛の音に乗ってひたすら自己満足の踊りに興じていたのが、このときの日本であった。

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