大東亜戦争までの道のり


みなさん! みなさんは、私たちの祖先が血を流して戦った戦争は、なぜ起きたと思いますか?

 

軍人たちが政治の実権を握ったから? 中国を侵略したから? 国際社会に背を向けて世界的に孤立したから?

 

日本がアメリカをはじめとする連合国と戦争をはじめた理由を見るには、そこに至るまでの政治的な動きや国際的な潮流を掴んでおかなければなりません。

 

それが、まさに「歴史を直視する」ということなのです。

 

日清戦争と日露戦争

西洋列強による植民地化を防ぎ、独立国家としての地位を東アジアで築き上げるには、まず安全保障上の脅威を取り除く。これが新興国家・日本に与えられた喫緊の課題でした。

中国大陸から対馬海峡にかけて突き出る朝鮮半島は、日本の脇腹に迫るナイフであり、座視できない地政学的リスクを抱えていました。朝鮮を事実上支配下に置いていた清国(当時の中国)との間で、半島の帰属権を巡って起きたのが、日清戦争です。

兵器、装備、編成、ロジスティックとあらゆる面で近代化した日本軍は、軍閥の集合体に過ぎない清国軍を終始圧倒。国民国家として完成の域にある新興国と、旧態依然の殻に閉じこもる王朝国家との差をまざまざと見せつけ、清国優位と見ていた世界の国々を驚嘆させました。

日本は清国との間で下関条約を結び、朝鮮の独立を認めさせます。それでも、ウラジオストック(東方を制覇せよ)に巨大艦隊を張り付かせ、露骨な南下政策を推進するロシアとの対決は避けられず、国交を断絶して戦争を決意。明治37年(1904年)、日本は連合艦隊の旅順港奇襲攻撃を皮切りにロシアと戦闘状態に入りました。

総力で劣る日本は、みなぎる戦意と強固な組織力、高度なインテリジェンス戦略を武器に局地戦勝利を積み重ね、奉天会戦に続く日本海海戦の勝利でロシア陸海軍を駆逐。弾薬が底をつく薄氷の勝利でしたが、日英同盟を軸とする外交力で和平交渉を成立させました。

朝鮮半島を手中に収めた日本は、実力で大国としての地位をもぎ取ったのです。

第一次大戦とワシントン体制

1914年、オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺される「サラエボ事件」をきっかけに、第一次世界大戦が勃発します。

日英同盟との友誼で参戦した日本は、中国大陸の青島沖でドイツ艦隊を撃破、ドイツ領であった南西太平洋の島々もことごとく占領下へ。この大戦で欧州は疲弊し、日米が台頭するきっかけとなりました。

一方、ロシアは革命によって倒れ、共産主義国家のソ連邦が誕生することに。テロリズムと急進的な思想によって王室政治が打倒された事実は、皇室を持つ日本にとって衝撃的でした。

第一次世界大戦後、新たな国際的枠組みを決定すべく開かれたワシントン会議では、「日英同盟の破棄」「中国大陸の門戸開放」「不介入主義」「領土保全」という方向性が決定されます。このワシントン体制は終始、アメリカが主導権を握り、「英国の弱体化」「日本の国際的孤立」の種をまく巧妙な外交戦略の影も見え隠れしました。

しかし、共産主義革命を掲げるソ連の増長に対してはまったくの無策・無防備で、後に日米英の間に生まれた空白を突かれることになります。

第一次世界大戦は、「総力戦」という新たな概念が誕生した戦いであり、航空機や無線通信などの革新技術を生み出した戦争でもありました。

そして、兵器や艦船、戦車などを短期間で製造、エネルギー強国ぶりを見せつけたアメリカに対し、持たざる国の日本は、陸海軍ともに「この国とは絶対戦争できない」という共通認識を抱くのです。

未曾有の不況と騒擾事件

第一次世界大戦がもたらした世界不況は深刻でした。とくに敗戦国ドイツは天文学的な賠償金を押し付けられ、急激な物価高に悩まされます。

戦争特需の恩恵を受けた日本も、関東大震災やウォール街の金融恐慌が経済を直撃し、昭和恐慌とよばれるデフレ不況が世の中を浸食。金本位制導入・緊縮財政などの経済失策も重なり、大量の失業者があふれ、農村では娘の身売りが常習化しました。

ソ連が世界各地にコミンテルン支部を設立して暗躍を仕掛ける中、日本政府や軍部、民間人の間でも財閥敵視・社会主義思想が浸透し、政府要人や高級軍人らを狙った暗殺事件・クーデター未遂事件が続発しました。

  • 三月事件・十月事件(昭和5年):橋本欣五郎陸軍中佐を中心とする桜会メンバーがクーデターを画策、未遂に終わる。
  • 血盟団事件(昭和7年):過激な政治団体によって大蔵大臣・井上準之助、三井グループ重鎮・団琢磨が暗殺される。
  • 5・15事件(昭和7年):海軍将校三上卓一派による犬養毅首相暗殺事件。
  • 相沢事件(昭和10年):永田鉄山陸軍軍務局長が相沢三郎陸軍中佐によって斬殺される。
  • 2・26事件(昭和11年):急進的な皇道派の青年将校グループが蹶起、歩兵連隊を率いて首相官邸などを急襲し、多数の政府高官を殺害。

目的達成のためなら要人の暗殺もいとわない個人・集団が跋扈し、世の中を殺伐とした空気に包む時代でした。彼らを糾弾するどころか、拍手喝さいを送る世論の動きも、その流れに拍車をかけたといえます。

共産主義の先鋭化と満州事変

満州(現・中国東北部)には、日本の出先軍事機関・関東軍が設置され、日本人居留民の保護と現地の治安維持にあたっていました。

外地における日本軍隊の駐留は、日露戦争の勝利によって押さえた南満州鉄道の利権のひとつであり、なおかつ義和団事件後の北京条約によって認められた駐留権であり、国際法上何の問題もなかったはずでした。

しかし、中国共産党の策動による過激な民族ナショナリズムが過熱した当地において、日本人を狙った不法行為が多発し、日中関係は次第に険悪となっていきました。

中国人による日本人への不法侵害行為はのべ三千件に達するも、わずか1万足らずの関東軍で万全の治安警備を完遂することは不可能でした。

また、当時の中国は軍閥と馬賊が跋扈する不安定な政治情勢で、まともな統一政府というものは存在しません。

「国際協調外交」を基本路線とする日本政府の対応も、中国人の反日・抗日・侮日活動を助長。関東軍高級参謀が画策した満州事変は、そのような状況下で発生しました。

昭和6年9月18日、柳条湖付近の南満州鉄道で爆発事故が発生。現場に急行した関東軍は、居合わせた張学良の軍隊に先制攻撃を浴びせ、そこから電光石火の進撃で吉林、チチハル、錦州を制圧。中国軍はなすすべもなく遁走しました。高度な計画性と謀略性の中で行われた軍事行動であるのは明らかです。

日本政府は若槻内閣が責任をとって総辞職し、犬養政友会内閣が発足して事変収束に向け動き出すものの、関東軍の暴走を止めるには至りませんでした。

次々に占領地を拡大して既成事実を積み重ね、満州から中国の息のかかった勢力を排除した関東軍は、昭和7年3月1日に満州国の建国宣言を断行。ここに民族協和をうたう日本の傀儡政権が誕生したのです。

関東軍は自衛手段としての満州占領を正当化するも、国際社会の信頼は得られず、特にアメリカは大きな不信感を抱きました。国際連盟から派遣されたリットン調査団は、日本側の行動に理解を示しながらも、満州国の正当性を否定。国際連盟でも国家不承認が決議され、これを不服とした日本は連盟離脱を表明します。欧米諸国との間に生じた溝はますます広がるのでした。

近衛内閣の発足と支那事変

不景気から抜け出せず、政治が停滞する中、国民は強いリーダーの出現を求めました。世論の後押しと軍部の支持を受けて誕生したのが、近衛文麿内閣です。

困難な時代におけるニューリーダーとしての政治手腕を期待された近衛首相でしたが、昭和12年7月に発生した盧溝橋事件を解決できず、早くも処理能力の欠如を露呈させます。

この事件がきっかけで起きた支那事変(日中戦争)は当初「北支事変」と呼ばれ、軍も政府も局地的に解決させる方向で動いていました。

しかし、中国軍側の度重なる挑発や、朗坊事件、広安門事件など日本人を執拗に狙った殺害事件が多発し、そのたびに両軍の間で武力衝突が発生。停戦合意しては小競り合いが起こるイタチごっこが続きました。

そして、悲劇が起きます。北京郊外の通州で、260名以上の日本人居留民が中国の保安隊によって虐殺される通州事件が発生。それは言語を絶するような残虐極まりない殺され方で、日本の世論は激高し、朝日新聞は過激な論調で中国への武力討伐を主張しました。

政府の不拡大方針は、「(蒋介石の)国民党政府を相手とせず」という近衛声明で雲散霧消します。戦争継続を唱える陸軍強硬派の突き上げも、不毛な戦争を拡大させた要因のひとつでしょう。

昭和13年、日本政府は生産力拡充や軍需整備などの物資動員計画を定めた『国防総動員法』を制定。また作戦の統帥機関である大本営を置いて軍命令の一元化を押し進めました。日本が中国大陸ではじめた戦争は次第に泥沼化し、終わりの見えない全面戦争へと発展していくのです。

三国同盟締結と南方問題

1939年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻により、戦火は再び欧州全土を覆います。ヒトラー率いるナチスドイツ軍は、電撃作戦でベルギー、デンマークを占領。オランダを降伏させ、イギリスをダンケルクへ追いやり、パリを陥落させました。欧州大戦の進展は、日本の対外政策に大きな影響を及ぼすようになります。

支那事変解決が急務の日本は、欧州戦争不介入の方針を原則としつつ、ドイツ勢力の伸長を見据え、南方問題の一挙解決に意欲を示します。

蒋介石率いる国民党軍を屈服させることができないのは、米英が後ろ盾となって武器や戦闘機、戦闘員を補給しているからで、補給ルートを断ち切るには南方へ打って出るしかありません。仏印(インドシナ半島)は、その援蒋ルートの入り口でした。

ドイツと手を結ぶ構想は、対ソ戦略を重視する陸軍を中心に根強く存在しました。北方のソ連を日独で挟撃する日独防共構想が昭和11年に成立するものの、独ソ不可侵条約締結によって同盟化は立ち消えとなります。

「日独同盟は、そのまま米英との開戦を意味する」と主張する海軍の強硬な反対もそれを阻みました。しかし、新たに外務大臣に就任した松岡洋佑の辣腕によって、日独伊三国同盟の締結が実現します。欧米との亀裂は決定的となりました。

米国は対抗措置として、日米通商条約の破棄を一方的に宣言。イギリスとオランダがこれに便乗し、重要物資の輸出を止める対日封鎖を断行しました。

海軍の予想通りの展開になるも、日独が運命を共にする流れは、もはや誰にも止められない情勢に見えました。

対米戦争を何としてでも避けたい日本は、ルーズベルト大統領と旧知の間柄である野村吉三郎海軍大将を駐米大使に任命し、日米交渉をスタートさせます。

野村大使がワシントンの土を踏んだのは、昭和16年2月11日。日本は紀元節の晴れの日でした。

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